インタビュー収録:2011年10月26日 福岡市文化芸術振興財団 事務所にて
聞き手:二宮 聡(NPO法人コデックス)
福岡Bプログラムで作品制作を行う平原慎太郎作品「空の街」。その作品に参加する出演者を選出するワークショップ・オーディションを行った翌日、平原さんにお話を伺った。
— コンドルズなどで平原さんをご存知の方もいらっしゃると思いますが、まず平原さんご自身について、福岡の人たちに知っておいてほしい事などお話しいただけたらと思います。
僕が一番最初に作品を作ったのは19歳のときで、JCDNの「踊りに行くぜ!!」でつくったんですけど、そこから作る事に目覚めて、ずっと作り続けてます。実はダンス作品だけじゃなくて、当時はインスタレーションも作ってたりしていて。例えば無印良品の写真の入るバインダーにA4の四角い紙に自分で書いた詩をバァーっと何枚も挟んで、最後のページに鏡が入っているみたいな作品を作ったりしてました。そっちの方向も好きだっていうのもあって、作品という言葉の捉え方に違う感覚があるのかもしれないですね。最近は音楽作りも始めて、昨日のオーディションでもかけたりしました。他にビデオの作品も作るし。
— 踊りを始めたきっかけって言うのは?
まずTRFのSAMさんになりたくてダンスを始めて、そんで中一のときに劇団四季の「オペラ座の怪人」を見て「自分の踊る場所は舞台だ」って思った。衝撃的すぎてその時3回も見に行っちゃって。「SAMさんになりたい」ってのは生で見たSAMさんじゃなくて「TVで見たSAMさん」になりたかった。でも舞台での踊りを見て、生で踊るダンサーになるってのを決めたんですよね。そのときの感覚が今だと作品を作るときに「なんで映像作品じゃなくて生でやらなきゃ行けないのか?」とか「今これ映像作品でもできるよなぁ」とか、「生である事の必要性」を考え続けていく元になってますね。
— そこからどんな道を歩んでこられたのですか?
とりあえず高校に行って、卒業してからはHip-Hop一色、一色って言ってもコンテンポラリーダンス1割、バレエ4割、Hip-Hop5割くらいの生活で、スクールに通ったり、クラブで踊ったり、ショーケースやコンペティションに出たりして。
そんなとき、今はベルギーに住んでる、坂井靭彦(ゆきひこ)と言う人の作品に出る機会があって。僕の師匠にあたる訳ですが彼はベジャールのカンパニーの初期の頃にいた人で、結果的に「踊りとは」ということを習った。それでコンテンポラリーダンスが面白くなってきちゃって。そわそわしてたら、次の年に金森譲さんに出会って、決定的に「こりゃコンテンポラリーダンスだな」って。
19歳のときにコンテンポラリーに出会ってそんな風に激震が走って。21歳のときに、ヨーロッパに3ヶ月、バックパッカーじゃないですけど、修行に出たんですよ。オーストリア、フランス、オランダ、ベルギー、スイスを鞄1つで回って。当時の金森さんが振付けしてたNDTを見に行ったり、中村恩恵さん、大植さん、首藤の泉ちゃん、そういう今第一線で活躍する人たちに出会ったり、ローザスのリハーサルを見たり、って言う経験をしたんですよね。
それで帰って来て、その次の年に金森さんのno.mad.ic projectのオーディションを東京で受けて、滑り込みで合格して。その次の年にはnoismで、そこから新潟に3年間いました。
©園田裕美
— なんでそのときHip-Hopをやっていたのにコンテンポラリーダンスに入れ込むようになったんですか?
それはHip-Hopの延長で踊れるってこと、そしてコンテンポラリーダンスには作家性が求められるってことにとても惹かれたから。「こうしたいんだけど」っていう自分のイメージに基づいてダンスを踊れるジャンルだなと。自分が持ってるものが肯定され更にデベロップさせながら創作が出来るっていうのが良かった。
当時の北海道のHip-Hopってスゴくオリジナリティーがあった気がする、音楽もその他の芸術全般もそうだと思うんですけど。個人的な見解ですが、北海道と本州の間って津軽海峡があるでしょ。それがあるからある意味で、文化が真っ直ぐ入ってこないんだと思ってるんですよ。海を渡る最中になにかあるんでしょうね、良い意味で歪んで伝わってくる。そして北海道の中で独自に変化するんです。
そんな当時の北海道のHip-Hopの音楽やダンスっていうのが、意外にコンテンポラリーダンスに似てる感じだったんですよ。すっごい変わってる Hip-Hop ばっかりで。それが当たり前だと思ってたんだけど。でも ダンスの全国大会に出た時にさ、やっぱり Hip-Hopってテクニックとかのある決まった踊りだって言うのを感じたし、僕らが知っていた枠とは別の枠を感じた。そこに Hip-Hop っていう言葉とのギャップが生まれたのかもしれない。
— ちなみにその当時、北海道でクリエイティヴだった Hip-Hopのアーティストっていうのは?
音楽については、今いる人だと、The Blue Herbさんとかはもう当時から有名だったし。あとKOSSさんっていう人はHip-Hopではないけれど、すごく独特な世界を電子音楽で作るし。ダンスだとカリタジュンヤさんという人が居る。なんかそう言う独特の世界観をHip-Hopっていうフィールドで作れているっていうことに、強く影響を受けていたんじゃないかな。
— 平原さんがHip-Hopのなかでアレンジして行く方向をやめたのはどうしてですか?平原さんの舞台上の表現だけでは「このひとはHip-Hopの人だ」ってわかる人は少ないんじゃないかとも思われますし。
僕は「コンテンポラリーに来た」って言うよりは「Hip-Hopのまま」って感じなんですよね、今もそういうつもり。あと、マジな話をすると僕が「コンテ、コンテ」って言ってるじゃない?でもコンテンポラリーダンスって言うのはヨーロッパで始まったもので、その知識だったり基礎がない人にはやれる訳が無い、って思ってるの。なんでもいいんだろうけど、でもどっかでそうは思ってない。
僕の踊りも本当にHip-Hopが好きな人からだったら「Hip-Hopっぽい」って見えてるのかもしれない。現にそう言う人がいて、山崎広太さんのイベントに出たときに「すごくHip-Hopを感じました」って一般のお客さんに言われたりもしたんで。
©園田裕美
— なるほど。平原さんとしては「Hip-Hopダンサーだ」って思っている訳ですか?現在のコンテンポラリーダンスを取りまく環境の中では自分がどういうダンスか、って言うのをキチンと自己紹介するほうが良いと思う場面もありますが…。
いや、「Hip-Hopダンサー」だとは思ってないけど、「Hip-Hopをやってるひとでいたい」とは思ってる。だから言葉も使うし、サンプリングして音楽も作るし、体も使うし、仲間とやってるのはプロジェクターを使うっていうグラフィティにあたる要素もあるし、それらのHip-Hopの要素を自分たちの中では意識してるから。実はあまり「コンテンポラリーダンサー」としての自覚はしてないです。
名前にしちゃうのもなんか好きじゃないんですよ。名前を付ける事は区切る事だから。「僕、じつはHip-Hopなんですよ」って言っちゃうとそう言う目でしか見られない。僕が何者か、何をやってるのかって言ったらそれはもう「ダンスでしょ」って感じなんだけど、それだとわかりづらいから「コンテ」って言ってる。「コンテです」って言葉がなんで一番良いかって言ったら、「コンテ」っていう言葉は一番ザラッっとしてて、なにか分かりづらい。つまり「コンテです」ってのは日本では不透明な何かという意味なんじゃないかというね。
— そういう風に言われると何か「コンテンポラリーダンス」って言うものがダンスのジャンルの様ですが…。
いや、でもジャンルとして捉えられてるでしょ?言葉の意味としてはとにかくとして。だってダンス教室なんかに行っても書いてありますよ、「コンテンポラリーダンス初級」とか。だからダンスの世界だとやっぱりジャンルでしょう、今は。
コンテンポラリーダンスとつきあう上では「コンテンポラリーダンス」って言葉を使う。しかしそれが「コンテンポラリーアート」って言う様な範囲にまでになってくるとまた話は変わってきますよ。そこだと「ダンスを用いた作品」を作ってる訳。その作品はHip-Hopダンスでもない、コンテンポラリーダンスでもない、ましてやモダンダンスでもない、もしかしたらダンスでもないってなるかもしれない。ただのライブ、ダンスライブかもしれないし。
名前に対して違和感を感じるのが僕にとっては面倒くさいから、ざっくり「コンテ」って言っちゃう。コンテは不透明という意味で使う。なんであれ僕はやっぱり「ダンスする人」だから。
©園田裕美
— 作品のコンセプトについてお伺いしたいと思います。タイトルは「空の街」。今回は架空の街が舞台上に創られる、というコンセプトだとお聞きしていますが、その架空の街についての具体的なイメージや作り方についてお聞かせください。
同じ言語、同じカレンダーや暦で生活しているだとか、いろんなことを人が共有しているっていうことがあって、その共有する部分の延長から作品にいけないだろうか、って考えている。
あと、福岡に来てブワッてひらめいたことなんだけど、「緊張感」とかも共有するよね、土地、エリアが一緒なわけだからそれは当たり前なんだけど。いろいろと今デリケートな時期だからたくさんは言えないけど、例えば天候だとか、台風が来るだとか、エリアごとに緊張感が違うよね。サクラの咲く時期とかもエリアごとに違うから、うかれ具合も違ってくる。その緊張感も街ごとに来るっていうのが、今一番新しいひらめきなんだけど。
— なるほど、日々いろいろなひらめきがある訳ですね。その中で一貫して平原さんが今回の作品で一番言いたいことは何ですか?
やっぱり、街って言うのを意識させたいんだよ。今回、同じテーマで街にまつわる作品を作る磯島未来さんがいるのを知って「やっぱりこのテーマでつくる人がいたか、そりゃそうだよな」って思った。アーティストがみんな同じことやるのは気持ち悪いからそうしろって事では決して無いけど、震災があって、その後どんなことやってても良いけど、なくなったもの対してのレクイエム的なこととか、なくなるって言うのは人の命に対してだけじゃなく今回の街とかについてもなんだけれど、なくなったものへの関心ってものを取り上げるってのは自然な行為だと思ってる。そういうものを発信していきたいと思ったから、街って言うテーマを選んでみたんだよね。で、僕がこういう仕事をしてるからかもしれないけど、テレビでもインターネットでもない媒体で取り上げるのが良いんじゃないかなぁ、と思ってた。日常的ではない媒体でやるという。
— やっぱり3.11のことが関係しているんですか?
うん、少なからず。それはそう。
©JCDN
— 平原さんにとってここが自分の街だって思えるところはありますか?
僕はやっぱり北海道が、自分の街だなって思っちゃう。今は東京に住んでるけど。
でもこの件に関してはこの間、スゴくショックだったことがあって。最近、北海道で作品作りのワークショップを2週間程度やる機会があったんだけど「また来ますね。今回東京に帰りますけど…」って無意識に言ってしまって。「東京に帰る」って言った瞬間ドキッとしたんだよね、「間違えた!」って。そうじゃなくてやっぱり逆で「北海道に帰る」の方が正しいと思ってるから。やっぱり帰る場所としての街は北海道かな。
— そういう言い間違いっていうか口をついて出てしまったのは、どういう意識から出てきたんでしょうか?
やっぱりそれは「いまどれだけそこに居るか?」って言う時間の量の問題に呑まれてるっていうかさ。常に自分の街は北海道なんだって気持ちではいたいんだけどね。
— 今は仕事などの都合で東京にいらっしゃると思いますが、いつかは北海道を拠点にしてダンスの仕事が出来るようにして行きたいですか?
うーん、それは正直、北海道じゃなくても面白いかなとは思ってるんだけど。
— 平原さんが今回福岡で街を作るって言うのはどういう意味を持ちますか?
街を作るって言うのは街への憧れだけじゃなくて、それは大事な要素ではあるけれども。架空の街って言うのは「壊せる」ところを考えられるのも、良いところだと思う。架空の街は最後には壊れる、つまり作品をやり終わって僕が帰っちゃったら。今回の作品の1つのコンセプトとしてその点は全くぶれてない。作ったものを壊して終わる、っていう概念に参加者に気付いてほしいんですよ。その為に時間をかけれる、機会があるって言う。
例えば2日間で作ったダンスの30分くらいのショートピース、それをやり終わって「ああビールうまいね」ってのと、3週間みんなで何時間もかけて、僕も東京から来て、そう言う意識でやり終えるのって全然違うと思う。
僕の中ではダンス作品っていうのは「終わる」んじゃなくて「なくなる」んだって思ってる。幕を閉じて終わるんじゃなくて、今までの時間は全てなくなる、っていう風に。ただ言葉の遊びかもしれないけど。それを伝えたい、っていうね。
©JCDN
— 福岡のダンサーと先月のワークショップ、昨日のオーディションを通して受けた印象は?また福岡の街から何か感じた事は?
オーディションをしてみて思ったのは、体の利きそうな人はチラホラいたし面白いなと思った。ただもう少しエネルギッシュでバイタリティーがあるんじゃないかと思ってた。それは僕の勝手な想像だったんだけど。わりと大人しかったなって言う印象が強い。
福岡の街は今回が秋だからかもしれないけど、ものすごく良い!福岡に来るの3回目なんだけど、いつも公演場所とホテルの往復しかしてなくて、秋の晴れた昼間の福岡で、中洲の川がこんなに海に近くて、こんなにキラキラしてるって知らなくて、やばいなぁ、良いなぁ、って。
— 現代では、平原さんにとっての北海道のように強く故郷としての“街”を意識する人たちも少ないだろうし、故郷がある人とない人に分かれています。また私たちにとって、3.11でいっそう、自分の街、故郷に対して考える機会となりました。そんな状況の中で、昨日は参加者を選出するという“街”をつくるスタートラインに立った訳ですけど、どのあたりが今回の作品の要になっていくのでしょうか?憧れの街を作るのか、それとも平原さんなりの今の世の中にとって「街とはこういうものだ」というの作るのか、どんな方向性になるのでしょうか?
街にはいろんな人がいて、まとまって街をつくる。そんなシンプルなところから始めたいけど、作るべき街がどんなものなのかって言うところまではまだ至っていない、見えていないと思う。でも、暗くはしたくないと思ってる。街って言うのが暗い状態で存在してるって言うのにはしたくない。作るべき街っていうのが目指すべきものがなんなのかっていうのは、やっぱりこれからですね。希望とか憧れは重要なところではあるけど。
— と言うことは、今回面白いところは「構造」ですよね。中身や、目指す街がどうかというより。作家として違う街に滞在して、作品を作る。そして、平原さんはいなくなるのだけど、その街は残るし、出演者もそこに取り残される。そのときに結局何が残るのか?と言うような問いを生み出す構造を作品が持っている、と。
残る人間もいるけど、結局僕は出て行く人。その「出て行く」っていう感覚も欲しい。実は、そういった感覚は毎回もらってるんだけどね、北海道で作品を作る時なんかに。ただ今回はそこをもっと意識することを重点的にやっていきたいっていうかさ、「出て行く」って何?と言う風に。
©園田裕美
— 「ヨーイ、スタート」で開演して、幕が下りて「ハイ終わり」ではなく、時間の流れも、場所の在り方も現実とは違ってくるっていう舞台の持つ特性があると思います。その特性を使って、先ほどの「東京に帰る」って言葉が表すリアルな感覚と、目指すものとしての今回作る街と、ギャップのある二つをどう行き来させるかって言う、その部分を考え続けることにもなるのでしょうか?
みんなに振付けするって言う作品でもないしね。福岡にいる時間を使ってやるって言うこと、それをそういう風に使いたいなと。
— それぞれ街の概念が違う中で、街にまつわる様々なことを平原さんも、出演者も考えて行くということですね。
昨日のオーディションで年配の女性の方が「みんなが出て行って寂しい」っていうことを言ってましたね。ほかにも意図してないところで、作品を想像させる様な台詞が出てくる場面があったと思います。福岡という街には、今回のオーディションに参加したダンサーにもいましたが、東京に一回出て行って戻ってくるとか、転勤で2〜3年ほど暮らしたり、いろんな人がいます。そういう意味では街として捉えるといろんな要素があり興味深いですよね。
でも大事なのは想像することだからね。ここにあるってことよりも、想像力がどこまでたどり着けるかが大事だから。人がどんな風に生活したりだとか、出たり入ったりって言う今の話は現実のことで、このテーマを決めるまでの考えに対しての視点にとっては大事だけど。むしろ想像の街に対して、その街を構成するものとして、宗教性だとか、気候だとか、風習だとか、史実っていうか街でおこった何かだとか、そういうものに対しての想像ってことの方が大事っていうかさ。この風習に至るまでのにこの街がどういったことを経験して、どういう習慣にたどり着いたかとか、そういう街に対する捉え方の視点が実は僕はスゴい重要だと思っていて。
昨日のオーディションで、課題として自分のことを話してくれって言ったときに、みんな結構街と絡めて話してくれたんだけど、あれよりはもうちょっと、作品として街にスポットを当てたときに、もっと大きい時間だとか、その人なりの哲学ってのを探して行きたいと思ってる。
— ありがとうございました。どんな作品が出来るか楽しみです。