踊りに行くぜ!!Ⅱ[セカンド]vol.2 仙台公演感想集

「見に行ったぜ!!」

石川裕人(劇作家、演出家、ThetreGroup”OCT/PASS”主宰/宮城県名取市在住)
*ブログ「石川裕人劇作日記時々好調」http://gekisaku.oct-pass.com/より転載

「踊りに行くぜ!!」をメディアテークに見に行く。
個性の違う、コンセプトも違う、テーマも違う4組の競演だった。
「uRu・Gula!!」は一番ダンスっぽいのかな。ダンスは門外漢なのでよくわからないが、そのように感じた。
「MESSY」は女性3人がアブストラクトな感情表現を行う。衣服を引っぺがそうとする行為は面白かった。結構楽しんでいたようで、パンツぺろりも期待したが、それはおやじのエロ目線。言葉が身体表現の水域に入っていく瞬間がもろ出しでなるほどなあ、と思ってしまう。
「4……soku」は男性ダンサーの驚くべき身体能力を見せつけられた。腕の回転の速さと美しさ。猫のような歩行をする男と新聞の輪転機のようなプレモダンな構造物と映像を見ているうち、カフカ的きりもみに入った。役者もせめてこの三分の一くらいの身体能力を持つべきだな。
「街に生きる」にはシニア劇団まんざらの有志メンバーが出演している。そしてこのまんざらの人たちをメインに組んだのではないかというような設定だった。街には若者だけがいるわけじゃない。後50年もすれば街にはシニア世代だけが闊歩する世の中になるようだけど。それはさておき、そのまんざらの皆さんが素晴らしかった。お世辞じゃなく、あんなにドラマツルギーの中に入れるんじゃありませんか。これも2回の公演体験の成果なんだろうか?それとも演出の磯島未来さんが引きだしたのか?今度どんな創作過程を辿ったのか、聞いてみよう。
コミュケーションとディスコミュニケーションの繰り返しが次第に街の基本概念を作っていくという構想が見事に出ていた。舞台裏のギャラリーも借景として面白い。警備員の人も含め、みんな出演者だと思ったのはわしだけじゃないだろう。


©越後谷出
 
 

物言う体

千田祥子(財団法人米沢上杉文化振興財団主任事業企画員/山形県米沢市在住)

青木尚哉作・演出「4….soku」を観る。男性が二人。アースカラーのTシャツとズボン。舞台右手には大きな紙を挟んだロールを持つ印刷機のような何か。舞台奥にスクリーン。

 相手の存在は目に入らないのだろうか、探しているのは明らかに思えるのに、決して目を合わせることはない。一点だけ二人の体が触れている。その点は決して留まらずに移動していく。お互いの存在を感じないはずはないのに、お互いに向き合うことのない視点と身体。点は決して離れない。なんてことないように見えて、そっと触れているだけのように見えて、ものすごい緊張感、ものすごい引力。引き合わず、押し合わず、ただ触れながら動き続けている。

人が人に触れるときの、あの感じ。砂と砂が交わるような、似たもの同士がすいっと張り付くような。見ているだけなのに、その感覚がこちらに乗り移ってくる。

身体と身体は、また不思議な組体操を始めてまるでひとつの動物のように動き出す。だからといってなにかの姿態を真似ているわけでもなく、過剰にコミカルなわけでもなく、ただ真剣に次の着地点を一歩一歩探しながら、お互いの身体をぴたりと合わせ、決して目と目は合うことがない。でも、自分が肌で感じているもう一人の誰かを絶えず探し続けているようにも見える。それなのに、決して見えないところに「彼」はいる。そこに「彼」がいることを第三者である私たちだけが知っていても、彼らにとっては何の意味もなさないのに。

探し続けていた何かを、最後、彼らは獲得できたのだろうか?

静かに動き出していた巨大な印刷機は、今日の出来事、そしてその町の歴史を伝える新聞印刷機のよう。自然に動き出し、動き続けて止まらなくなる。その紙面を映し出すスクリーン。黒く塗りつぶされた行が多くなった頃、バサリと最後の紙面になるべきページが地面に放り出された。世界を知るための媒体、世界が書いてあるはずの新聞。黒く塗りつぶしたのは誰?なんのために?私たちが知るはずだったのに知ることのできなくなってしまった事柄、塗りつぶされずに読むことができる事柄、真実はどちらなのだろうか。そもそもそこに書かれていたことは誰が真実と認めたことなのだろうか。(震災以降のめくるめく虚偽が混在していたと後からしか知ることのできなかった報道記者会見を思い出し、今、目にしている記事はじゃあ信じられるのか否かと、再び意識は急に呼び起された。)

感想にも何にもなっていないような散文だが、ひとつだけ書き置いておきたい。この作品を見ている間、こちらの視線は気持ちいいくらい舞台に釘付けだった。何かが始まるのか、何も始まらないのか。そう思っているうちに舞台の上のふたりの存在感、感じていないのに感じている「誰かがそこにいる」という気配、そんなものが充分に魅力的だった。‘物言う体’がそこにはあって、ついついこれからどこに連れて行ってくれるのかい、と、尋ねているような気分のうちに、いつの間にか見入ってしまった。ダンスは言葉を介さない表現だけれど、ダンスでなければいけなかったこの作品の理由がきちんとそこにあった。


©越後谷出
 

 

伊藤み弥(踊りに行くぜ!!仙台実行委員、Art Revival Connection TOHOKU事務局/宮城県仙台市在住)
 
昨年4月、まだ混乱の残る仙台。人びとはそれぞれの日常を取り戻すのに毎日一所懸命でした。仙台の様子を見に来た佐東さんが、定禅寺通りのドトール前で言いました。
「今年、仙台でやるよ」
 私は、おっさんなに言っとんじゃ、と思いました。劇場はほぼ壊滅してるし、私なんかまだ風呂にも入れてないし、舞台のことなんて実感できないっつーの!すでに被災地には有名無名有象無象の”アーティスト”が押しかけ、現地の人たちは慰問疲れを起こしていましたし、私は、頼むからそっとしておいてくれと思ったのです。正直。
 
 そして5月、制作リーダーの千葉里佳が国分町の飲み屋で言いました。
「仙台でやります!」
 彼女自身ダンサーであり、かつ仙台におけるダンスの将来を憂えている稀有な人です。私は、何の見通しも見込みもなかったにもかかわらず「…わかった」と制作サポートを引き受けました。たぶん、何もなくても人間さえいれば何とかなるというダンスの根源的なちからみたいなもの、を私自身が見たかったからだと思います。切実に。
 会場はせんだいメディアテークの1階オープンスクエアに決めました。ここは音も明かりも漏れるし、構造物はじゃま、照明バトンも少なく、消防法は厳しいという、かなり面倒な場所です。
 でも、コンテンポラリーダンスがマイナーな仙台では、ダンスを一般市民に“見せびらかす”必要があると私たちは考えたし、そのために、この面倒でうつくしい広場に負けない骨太な作品を私たちは望みました。
 
 それからいろいろありまして、雪の降りしきる2月4日、満席の観客に見守られながら仙台公演が無事終わりました。
 伊東歌織チーム「uRu・guLa!!」はかわゆらしくてへんてこりん、絵本のようなファンタジックな世界を見せてくれました。
 菅原さちゑチーム「MESSY」では、爽快なまでに痛々しく身も蓋もないカオスの中に、女性のしたたかさと脆さを感じました。
 青木尚哉チーム「4….soku」では、鍛えぬかれた身体たちが紡ぐ、硬質でしなやか、ユーモラスかつ悪夢的な時間を堪能しました。
 仙台・卸町で創り上げた磯島未来チームの「街に生きる」には、19歳から77歳まで総勢21名の宮城県民が参加しました。彼らは傍目にも微笑ましいくらい仲が良く、磯島さん手代木さんという名コンビのみちびきのもと、誰もがダンスを「自分たちごと」として愛しました。メイドイン東北の奇跡的なチームでした。
結果、彼らの汗と涙は、氷点下の稽古場を経由して、実に滋味深い作品としてメディアテークに現象しました。
あい ま い  な さかい め で 踊 る  老 若  男  女 たち

 みんないろいろあったのに、こうして踊っている。踊れてよかった。このダンスは、生きている証拠だ。観る人によってとらえ方はいろいろでしょうし、作者の意図とちがうでしょうけれども、私は津波のあとに咲いた野の花の凛々しさと、営々と続いてゆく人間の歴史をそこに観ました。客席のあちらこちらからすすり泣く声が聞こえていました。自分の人生と重ねて観ていたのでしょうか。
 終演からだいぶ経って、高校生女子が撤収作業でごったがえす会場にわざわざアンケート用紙を持って来てくれました。「ダンスにはいろんな可能性があると思いました」と書いてありました。私は「ああやってよかった」と思いました。
 
 2012年2月4日、立春大吉。新しい春の扉が開く日、このまちにダンスが在ったということを明記しておきたいと思います。アーティストのみなさん、スタッフのみなさん、本当にお疲れさまでした。
 そして、踊りに行くぜ!!@仙台の草創期を支えてくれた居酒屋「あべひげ」店主の阿部立男さんと、照明家アイカワマサアキさんに心から感謝します。ほんとにありがとう。これからも雲の上から見ててね。


©越後谷出

 

 

渡邉曜平(八戸ポータルミュージアムはっち企画運営グループコーディネーター/青森県八戸市在住)
 
2012年、2月4日にせんだいメディアテークで「踊りに行くぜ!!」Ⅱvol.2 仙台公演が開催された。この公演では4組のダンサーの出演があり、200名余りの観客が会場を埋めた。
 ここでは各作品について私が感じたことを述べたいと思う。今後予定されている巡回公演に少しでも参考になればという思いもあり、批判的な内容も書いているが、悪文と合わせてご容赦いただきたい。
 
 最初の作品は伊東歌織作「uRu・guLa!!」。
 影絵のような演出や、おとぎ話に出てくるどこか遠くの国のような衣装など、絵本を見ているような作品。独特の振付け、不思議な造形の舞台美術なども相まって、冒頭から確固たる世界観を感じさせるイメージづくりが素晴らしかった。
 ただ、全体に漂うおとぎ話な世界観から「物語」を期待してしまったため、それぞれの役柄が推察しにくいことや、不明瞭なストーリー展開に「印象」だけが残ったような気がした。絵本やおとぎ話を「読んでもらった」という子供時代の体験と先入観から、このようなイメージの作品に対して受動的な態度になってしまうゆえの感想かもしれない。もちろん、ストーリーがわかりやすい=良い作品というわけではないが、しかし、独特の世界に観客を引き入れ、見た人それぞれがストーリーを編んでいくために、もう少し具体性(たとえばナレーションや台詞の導入、あるいは人物の関係性を暗示する小道具など)があればさらに楽しめるのでは?と感じた。それは、なんでも説明や意味を求めてしまう大人の意見なのかもしれないけども…。

 2番目の作品は菅原さちゑ作「MESSY」。
 3人のダンサー(パフォーマー)による作品で、ダンスと各人の独白からなっている。独白部分では、それぞれの実際の人生においてショックだったエピソードが語られる。当事者にとってはトラウマになりそうな内容だが、特殊すぎるエピソードで結構笑える。客席が爆笑する場面もあった。全編通していわゆるダンスらしいダンスはなく、また、3人それぞれに際立ったキャラクターも強烈で、この独白シーンが一番印象に残った。
 それだけでも十分楽しめたのだが、終わり方が中途半端だったのが残念だった。ラストは3人で飛び跳ねまわって人生の鬱憤を晴らすような爽快なシーンだったのだが、「締め」となる部分がなく終わってしまったために、前半の独白のみが印象に残る結果となったように思う。プログラムノートには『結局「自分がどう生きていきたいのか」に答えなんてそんなものはなくて、これからも生きている限りずっと思考し続けることが大事(後略)』というこの作品の結論となることが書かれているが、それを何らかの形で表明するシーンがあればテーマが明確に伝わったのではないかと思う。独白部分はテーマへの導入だったと思うのだが結論までの展開が弱く、一方的に作品が進んでそのまま投げっぱなしになった印象があった(言葉が悪くてすみません…)。
 インパクトも、観客を引き込む魅力もある作品だけに、もったいない!と感じたので、今後の巡回会場でどのように変わっていくのか楽しみだ(私は見れないのでとても残念)。
 
 3つ目の作品は青木尚哉による「4….soku」。
 青木ともう一人のダンサーである山田勇気はNoismに在籍していたということもあって、訓練された身体からメカニカルと言っても良いような、洗練された動きが繰り出される。二人が上下に組み合って動きを邪魔しあう若干コミカルなシーンから始まるこの作品は、ダンスする身体の隙のなさゆえに、見せ場の連続と言っても良い。「身体の放つ存在感」という点では他の3つの作品と一線を画しており、クラシック音楽の世界で言う「ヴィルトゥオーゾ」(超絶技巧を操る超一流の演奏家)という言葉を思い出した。
 また、先にあげた冒頭のシーンやコンタクト・インプロヴィゼーション、ユニゾンのシーンなど、2者の精神的関係性が、身体の関係へと置き換えて表現されており、テーマの一つである「もう一人の自分という存在」(プログラムノートより)が明快に伝わってきた。しっかりと構築された完成度の高い作品だった。
 ただあえて、あえて批判的なことを書くとすれば、コンタクト・インプロが、いわゆる様式的なコンタクト・インプロであったことなどもあり、全体が技法や様式の連続に見えてしまわないこともなかった(「ヴィルトゥオーゾ」という言葉は、クラシック音楽でも全く同様の批判的意味で使用される場合がある)。だが、それでも全体が一貫した作品として見えたのは、高い作品構成力の賜物だろう。舞台美術も作品の一貫した雰囲気作りに重要な役割を果たしていた(時間で変化する作品だったが「常に状況は変わり続ける」というテーマの比喩だったか?)。これだけ構築された作品が巡回先でどのように変化していくのか?変化させていくのか?というのはとても興味深い。
 
 というように、それぞれバラエティに富んだ「踊りに行くぜ!仙台公演」だったが、なんといっても圧倒的な印象を残したのは、最後の作品「街に生きる」。
 磯島未来と、演出補佐の手代木花野、宮城県の一般参加者21人によるコミュニティダンスの作品で、この数ヶ月かけて共同制作された作品は、間違いなくこの公演のハイライトだった。
 「仙台の街の中に架空の街を創っていこうと思いました。」とプログラムノートにもあるように、21人の参加者がダンスによって架空の街=人がつながりながら生きる場を創る。
 参加者は10代から70代まで幅広く、演劇経験者やダンス経験者も多かったが、プロのダンサーではない身体・日常と同じ平面にある身体でしか生み出し得ない表現を、磯島と手代木は参加者から引き出していたように感じた。「一般の人でもできるダンスの振付け」をしてしまう例とは、創作姿勢が全く違う。
 この作品が伝えるメッセージは、どこにでもありふれているもの、日常に存在している当たり前のことの素晴らしさだと受け取った。かけがえのない一人一人が一生懸命生きて、出会いつながることで、この世界が今日もあり、明日もある。私たちは出来上がった世界に生きているのではなくて、私たちが毎日生きていることで街が、世界ができあがっている。大げさに聞こえるかもしれないが、そのようなテーマ、というより「意思」が伝わってくるようなパワーがこの作品には溢れていた。そのパワーの源泉については、3.11以降の現在という状況を抜きにして語れないかもしれないが、これについては他のレビュアーの方が書かれると思うので深くは触れない。
 磯島、手代木は作品について「良い作品となったのは参加者の人たちが素晴らしかったから」と謙遜していたが、一般参加者の意欲や意見を引き出し、作品として高いレベルにまとめあげたのは並大抵ではない。参加者の皆さんのパフォーマンスも並大抵ではなかった。
 この作品だけちょっと褒め過ぎでおかしいと思われるかもしれないが(自分でもおかしいと思うほど感動したのだが)、作品のテーマも内容も参加者たちのパフォーマンスも「必然的にこうなった」と思わせるほどのものがあった。ちなみに、この演目のみステージ後方を開け放って外の定禅寺通りが見える演出となっていたが、作品空間は実際の街と連続しながらも、特別な空間・世界としてしっかり存在していた。これもまたすごい。
 「街に生きる」は、コミュニティ・ダンスの最良の成果の一つだったように思う。参加者たちの笑顔は充実感と喜びに溢れていた。「22人目のダンサーになりたい!」と思った人が客席に何人もいただろう。会場は満員だったが、もっと多くの方に見ていただきたい作品だった。こんな共同制作の取り組みが、「踊りに行くぜ!!」Ⅱをはじめとして全国各地で展開され、幸せな体験が広がっていくことを願っている。 (文中敬称略)
 
©越後谷出

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