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©新井梨里子

伊東歌織作品クリエイションブログ

03.02

無様さについてのいくつかのこと。

仙台、鳥取公演が無事終わりました。自分の余裕の無さに比例し、ブログが全くストップしていました…。

勿論今も、余裕の無さはヒートアップ中ではあります。

でも仙台、鳥取で自分が陥ってしまった事、楽しめた事、悔しかった事などをざっと書きなぐる感じで記しておこうと思います。

◆仙台◆

仙台では、主に11月からずっと取り組んでいたストーリーメインの流れ、そして分かりやすさとはどういう事なんだろうと言う事をとにかく考えて創っていたように思う。

つじつまが合っていない間の部分を、どうやって分かるようにするのか?

この事は、結果的にはいつか物凄く役に経つ日が来ると思う。

でもダンスとして、仙台バージョンは説明的になってしまって動きそのものの面白さよりも、空間やモノで表現する事がメインになってしまった。

当初やろうとしてた、それぞれのキャラクターの個性への落とし込みが何処かへ行ってしまった。
踊った、という実感が薄かった。それは、シーン数の多さと展開の速さ、扱う要素の多さが原因だと思う。

これらを踏まえて、一から作り直さなければ、と一人で勝手に決意してしまった。

この辺から、鳥取へ向けての構想がバババと頭を駆け巡り、本当に勝手に、何も考えずに突っ走りそうなところで、色んな問題に直面した。

◆鳥取◆

鳥取では、作品の事よりも自分の性格的な甘さを思い知った事が一番の収穫だと思う。

作品は、自分なのだ。
決められない自分、間に合わせない自分、伝えきれてない自分。

それ以前に、ここに来るまで、作品を変えるという事への了解を取る事や、周りへの配慮の無さが人との衝突を生んだ。

ダンサーとしての自分の頭で、全てを動かそうとしていた事に気付いたのは、鳥取公演終了後の打ち上げにて、佐東さんに指摘されての事だ。

ずっと水野さんやアドバイザーの彩子が口を酸っぱくして言ってくれていた事が、頭ではなく実感として分かった。

鳥の劇場の中島さんにも、「本当の意味で分かる時は人それぞれだからね。」と言われた。だから、前日にゲネを観た中島さんは私に何も言えなかったんだと思う。
つまり、昨日今日位の短い時間で何を言っても、混乱させるだけで本当に言わんとしてる事が伝わらないだろうと思ったんだと思う。

◆演出家という視点。
客観的に作品を捉える視点。
目の前で起きてる事が、伝わるものになっているのか?
目の前に居るダンサーを、本当に見ているのか?
やりたい事とやれる事の違い。
やりたい事が作品とズレていた時どうするかの自分の判断。

ただ舞台に立つのが好きで、それしか無いと思ってて、ずっと踊って来てしまった脳みその少ない人間が、それに気付いてあと残り二週間でどうしようと言うのか?

そのざまを、どうか是非劇場に観に来て下さい。


01.25

素直じゃなさについて。

本音が出てくるまでもが物凄い時間が掛かるのだな、と最近自分の気難しさ、素直じゃなさ、について思います。

文章を書くという作業にしても、例えば最初は何かを真似て書くというのは、いい訓練になるなと今回の作品を経て思います。

何にしても、ある程度うまく見せる手法というのが存在している事にも気づき、そこに自分なりのコトバを乗せて組み立ててみると、大分興味を引くような文章が書けるようになる。

だけど、結局はダンスも文章も同じで、上手いから伝わるかというのは別で、何かあれこれやったけど、ポンと出てきちゃったものが自分のコトバであり文章であり、それをなくして人には届かないのではないかと、ここ数日で気付いた。

お手本を真似て、面白いコトバを紡いでは壊し、最後は面白くも何とも無いのだけども私自身がズルズルと放り出されてやっと納得する。

ダンスも、文章も。
その繰り返しをしながら、この先進んで行くのだな。


01.11

ふりだしだし。

昨日あれだけ考えたソロと曲との兼ね合いが、稽古場に行ったらあっさりとかなぐり捨てる羽目となった。

ソロと重なる二人のパートを見ていたら、そっちに合う曲を入れた方が良いと判断し、二人の物語の軸を優先させた。

そして、私のパートなど、あぶくのように消えていき、また新しい曲を解読する作業から始まるという、振り出しに戻されたのだ。

もはや、初日あけるまでそこは出来ないのかもしれない。
そしてトヨタの稽古場へ、イッテキマス。


01.10

だまし絵と自分のソロのリンク。

たまたまなのだが、急にだまし絵の事が気になって、画像を検索したり、
図書館で本を借りたりして読んでいる。しかし数学的な要素が多く絡むので、あんまりまともに読めないものでもある。眠くなるから。

無意識的に突然自分が選び取るものには、必ず必然性を兼ね備えているものだ。それは今回の作品創りの最も大事にしている部分でもある。

だまし絵と言えばエッシャーが有名で、その中でも気になるのは定番だけど、老婆と少女の絵。

まあ、作品どうこう関係なく、気になっていただけだったのだが、最近自分のソロパートがどうもしっくり来ない。何度も何度も創り直して、未だに納得が出来ないし、もはや客観視出来ずにギブアップしそうな勢いだったので、もう一度整理をしていた。

そうしたら、老婆と少女の絵が、自分のソロパートのキーワードとなったことに今、ビックリしたのですかさずブログに書いておこうと思いました。

今回の作品は、二つの物語が交錯しています。
そして、私の中に存在する二面性、つまりは普段隠してしまっている姿と、外に見せている姿のギャップがあって、その狭間で多くの人は苦しんだり、たまには楽しんだり、それでもやっぱりもどかしさを感じながら生きているのだと思います。

これは、殆ど物凄い個人的な感覚と性質を掘り下げた作品です。
しかしそれが、同じ様な想いをした事がある人にも届くものになり得ると信じています。

あれ?また話が飛んだ…?
頭の中、どうなっているのでしょう。
引き続き、稽古へ。


01.04

2012.1.4 稽古再開。

2012年、明けました!
本日から稽古再開です。

和歌山レジデンスを終え、別の公演を終え、
12月は全力疾走をひたすらしていたように思う。

年末年始は、身体の方は割とゆっくり休めましたが、
頭の中はやはり作品を静かに見つめ直す作業をコツコツと
やっていました。

この半年間、実に色んなところを行ったり来たりして、
思考の中で世界旅行をしていた気がします。
それが、ようやく本来の位置に戻って来て足場を固める作業に突入した感じです。気になる事が随分飛躍して訳分からない時期をようやく越えたのかもしれません。それはそれで寂しいんだけど、今はじっくりと。

昔自分の作品を、「絵を見てるみたい」
と言われて傷ついたことがある。

勿論、今考えると悪気は無いだろうし、私も傷付く必要性はなかったように思う。でも、目の前で起こっていることが動ではなく静と捉えられたことが、伝わらなさの象徴の様に思えて哀しくなったのだ。

でも今は、なるほどな、と思う。
それは、私の中の一つの世界の象徴なのだと。
内側は物凄く揺らぎ、激しい想いを馳せているのに表面化出来ない。
私のことそのものではないか。

あれから四年が経ち、本格的に30分作品を創らせてもらう。
結局変わらないことと、物凄く変わっていってしまったことを背負って、二月の公演に臨みたい。


12.18

日々生まれ変わって死ぬ。

和歌山から帰ってきてから、じっくりと作品を見つめる時間もないまま、来週末行う別の作品稽古に没頭しています。ね、ねむたい。。。。

ただ、和歌山で得た、色んな不味い後味。それは、主に自分にとってはこの先の宝であることは間違いないのですが、それをそのまま、ひとまずはポンと置き去りにしている状態です。

私は日々、生きているから考えが変わる。ということは当然、作品が変わる。

作品は生きている。死ねない。

さて、しかし作品を創ろう、とし過ぎると、何かが死ぬ気がする。つまり、物凄い矛盾が生じる。

人は勝手だ。管理したい、こうなってほしい、支配したい、こう踊ってほしい、これが観たい。と言う。

それに反して、依存して、構ってほしくて、必要とされたくて、ウロウロと蠢くのだ。

私が野放しにし過ぎても、管理して整理しすぎても、ダンサーも作品も同時に死ぬことになる。

お伽噺でもなければ、独り言でもない、その合間の中に見え隠れする叫び。生身の、強い作品を、どうにかして、とても絶妙なバランスで、構築していきたいのだが。

ああ、しかし、私の求愛の感覚と、ダンサーの求愛の感覚はまるで別物だろう。それをどのように伝え、引き出していくかが大きな課題だ。日々、どんな感覚を求めているのか?支配と依存、どちらの傾向が強いのか?もっと掘り下げて、奥を見つめて底を見たとき、その自分に対して思わず笑っちゃうのか。笑えないのか。

私は案外、笑っちゃう方かも知れない。


12.15

熊野古道へ

滅多に和歌山に行ける訳ではないことと、熊野古道の山道を歩いてみたいこと。そして樹を眺めることがここ最近の私の大ブームということもあり、ワークインプログレスが終わりひと段落した次の日、午後の時間をオフにして、那須さんに連れて行って頂きました。

滝尻王子からの山道(結構上り坂が急)。

入口から気持ち良い空気に包まれて歩き出す。

一人一人、樹々が本当に魅力的で、思わずじーっと見ていると皆がどんどん先に進んで離れて行くという・・・。

早速、大変魅力的な方に遭遇。

これ、写真じゃ影になってしまってますけど、根っこがびっしりと岩にはりつきながら融合して、巨大な根っこが!!そういう生命力の固まりの様な、日常で中々触れられないパワーが本当に好き。

空の光と樹の陰。想像が湧く。こういう写真ばっかり撮りためる。

私はこの時間に出逢った樹の中で、この下の写真の凛とした方が最も好みでしたね。しっとりしていて、青々とした植物を身にまとって、ズンっと強く立っている。

ここを通り過ぎたあと、胎内くぐりに到着しました。。折り重なる巨岩の下の方にかなりタイトな隙間があり、全員なんとかくぐれました。解説板によると、土地の人は滝尻王子に参拝し、竹杖をもってこの山路をのぼり、この岩穴をくぐって山上にあった亀石という石塔に参ったそうです。女性がくぐれば安産という俗信もあるとのこと。

やったね。

そして、このちょこんと可愛らしいお地蔵様。

乳岩といって、巨岩がおおいかぶさり、下に座って雨宿りができそうなくらいの空間があります。解説板によると、藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時に彼女が急に産気づき、ここで出産したという伝説があるそうです。夫妻は赤子をここに残して熊野に向かい、幼子は岩から滴り落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので奥州に連れて帰ったとか。

うっかりすると、見落としそうな岩の裏側に世界があって、この赤いのがよく映えてるんだよね。寂しさと強さが混合する世界。しかも、とても静かだ。

樹を見たり風を感じたり、岩の模様を見たり土に触れること。それを見る時、単なる植物として、モノとしての現象だけではなくて、命の一つとして捉えて見ると、見えてくるドラマが変わる。

そういうことが、最近ずっとブームです。   伊東


12.14

レジデンスを終えてのアタマ。

はあ~~~~あっという間の8泊9日でした!!!!

途中、iphoneが水に浸かってもう画面が暗くてよく見えない状態になってしまたため、メンバーに更新をお願いしていました。まあしかし、書きたいことがあっても書いている余裕がなかった、という方が本当です・・・。

私自身、27日~レジデンスに入る6日までの中で想定していた時間の使い方と、実際レジデンスでやるべきことというもののズレが和歌山入りしたその日に判明し、正直いっぱいいっぱいの日々でした。

ダンスを創りなおす、という決断はしたものの、ダンスそのものがまだ出来ていないところでテクニカルを打ち出す、美術を固める、というラインを並行させていくこと。そしてそれに伴う時間の使い方、劇場の協力的なスタッフさん、チームメンバーへの具体的な指示と進行。

あの、これは本当に、恥ずかしいけど実際一人ではこんなことは出来なかった。

こんな許容範囲を超えたことを、経験したのは初めてでした。

実感として、皆に助けられていることそのものに喜びや歯がゆさ、苛立ち、焦り、色んな感情で押しつぶされそうになりながらも、はっと気づいたらある一つの世界観が出来ていて、それをぼーっと眺めて、

「へえ、なるほど。これが私の色なのかも知れないなあ。」

と、やけに客観的に自分を発見した気がしたのを覚えています。自分のことなのに、改めて、気づく。

頭の中ぐるぐるしながらも、まったく伝わらない言葉で周りを困惑の渦に巻き込みながらも、アドバイザーの彩子と美術の山下さんが必死に形に起こしてくれて、劇場スタッフの那須さんと山本さんは優しくサポートしてくれて、ダンサーはとにかくついてきてくれて、ようやく一つの実感を得られた。写真は、その世界の一部となる私の相棒。

この、「大幅にキャパオーバーをしている状態から逃げられない」という状況そのものは、今後の自分の力になることは間違いないと思う。そうなってしまったことを悲観するのではなく、次回から改善して次のステップに踏み込めたらいい。

で、レジデンスが終わってリラックスした頭で飛行機に乗りながらぼんや~りと再度作品について考えると、何か知らないけどいきなりパパパ~っと足りないところをどうしたら良いかが見えてきて、ああ、もうちょっと早くにこの状態になれたらなあ・・・と自分の脳みその反応の遅さに泣けてくるんですが、笑、まあ、とにかく仙台に向けてじっくりやっていきたいと思います。

それから、合間にプチ観光の時間もあったので、それについても徐々にアップしますね。

伊東


12.13

和歌山クリエーションもあと少し

伊東歌織作品に出演します、ダンサーの堀菜穂です。
和歌山に来て怒涛の1週間が過ぎ去ってしまい、残すはあと1日になりました。

んー、和歌山でクリエーションできる素晴らしさはだいたいKEKEさんが書いてくれたのですが、まったく同じことを書いてしまいそうになるぐらい、素晴らしい環境でダンスができています。
・民宿のご飯がうまい、豪華
・空気がうまい
・みかんが超絶うまい

うまいばっかり言いすぎましたが、それ以上に
・劇場を1日中使える×8日間
・現地スタッフの方々が本当に温かく、全力でサポートしてくれる
・テクニカル含めた作品の制作がガンガン進む

ざっくり書きましたが、スタッフの方々や町の方の本当に細やかな気遣いがとても嬉しく、こんなにも恵まれた環境でクリエーションできることにマジで感謝しています。

ではでは、今日は昨日のワークインプログレスについて少しお話します。

和歌山でのクリエーションでのある程度の成果をお見せする場として、地元の方に発表するワークインプログレスをを11日に行いました。
11月までに作っていた流れをひとまずまっさらな状態にして和歌山に突入した私たちは、それこそテクニカルとダンスを同時進行して創作していくぎりぎりな状態でスタートしたのですが、スタッフの方々の素晴らしいサポートを得て、ざっくりではありますが、30分弱のある程度の作品として成立することができました。

しかーししかし、観客の方が、まあ、想定していたよりも、、若干少なくて、、、8人、、ぐらい?
そして年齢層が、、高かったですね。平均年齢70歳、、ぐらいかしら。

でも、年齢や、見ていただいた人数はまったく関係ありませんでした。
発表を終えた後のディスカッションタイムでとても貴重な意見をいただけました。

このようなコンテンポラリーダンスなるものを見たこと自体がない方々がほとんどだったので、未知の世界、正直よくわからない、「ダンス」という言葉からイメージするもの自体が音楽に乗って踊るものだから、無音のところなどがちょっと分からなかった、などの意見があった半面、見ている人のそれぞれが想像を広げられる作品だった、「心」が伝わるダンスだった、と言ってくださる方もいて、両方の意見とも本当に正直に思ったことを述べてくださったので、この場で発表する意味を、ずんっ、と感じられる機会でした。

私自身、ここまでダンスの稽古と向き合える時間がとてもありがたく、改めてダンスというものについて真正面から向き合えた時間だったと思います。
環境自体が、東京にいる時と全然異なり、日々やらなきゃいけないいろーんなことからしばしのあいだ解放されている状態だったので、もうやるしかないなと。

ぜんぜんまだまだペーペーですが、ダンサーとして、正直に、舞台に立ちたいと思った12月のクリエーションでした。


12.08

和歌山レジデンス三日目終了。

初めてのblog投稿になります、伊東歌織チームのKEKEです。
現在伊東チームは和歌山県の上富田にレジデンス滞在しています。和歌山県はとても過ごしやすい気候です。あとみかんは気が狂いそうなくらいおいしいです。一袋買ったのにあっという間になくなりました。

私たちのチームはほんの一週間まえに森下スタジオでみせたショーイングの作品を、一度まっさらな状態に戻しました。そもそもの、体の、本当に重要なものはなんなのかを考え直すためです。大きな賭けでしたが、やって良かったと思います。粉々に砕けたはずなのにチームの中では確実に共有できるものは掴んでいて、それを今は正直に抽出し、あるいは引っ張りだしえぐり出ししている最中です。もちろんたくさん問題点はありますが、こんなに早い段階でまた新たなものが再構築できるとは思いませんでした。

でもそんな状況になれたのも、和歌山の劇場スタッフの素晴らしいサポートがあったからこそだと本当に感じます。「あんな置き道具が欲しいなあ」とか「こんな照明ないかなあ」とかいう要求を驚くべき速さで、しかもかなり確実に実現してくれます。無茶苦茶な要求をニコニコと快く引き受けて下さいます。まさに神業です。工房も劇場にあるので美術もほとんどここで作れるみたいです。こんな素敵な状況が日本に存在するとは‥。あと、同行してくれたアドバイザーの山下彩子さんが大車輪の活躍で振付家とスタッフの間に立ってくれてます。

あとはダンスです。
自分の仕事は良いダンスを提供することですから、この素晴らしい状況を生かしてもっともっと精進しなければです。
ああ、あと民宿の飯もすごい毎回美味しい‥。

KEKEでした。


12.06

明日から和歌山入りします。

ようやくブログ開始します。自分のブログには日々色々書いていましたが、こちらは今日から。しかし、明日からはネット環境に居ないので多少飛び飛びの更新になるかと思われます。まず、明日朝の5時に起きれるのかってのが問題ですが・・・・。

先月の27日に中間発表をした訳ですが、ここでは既に2転くらいしている段階で、やってみて『頭の中のイメージをとにかく繋げてやってみたけど、全然腑に落ちなかった』という感触でした。

後は、自分たちは8月からこの作品に取り掛かっている為、もはや客観的に観れていないってことを痛感しました。まあでも、これはこっから2/4の初演まで続くことなので、どうにもならん訳ですが。

それよりも、そもそも何を一番伝えたいのか?というところ。

ここがブレてしまうと、一気に訳が分からなくなるのですよ。例えばコンテンポラリーダンスを観たことがない人に対して、分かってもらいたいポイントはどこなのか?そもそも、分かりやすさが自分にとって本当に大事なのか?例え分かりずらいとしても、ここだけは!ってのは、何なのか?これは、和歌山で徹底的に突き詰めたいポイントのひとつです。

森下を終えて気付いたこと。

「作品を創る」ということを目的にしたら、本質がブレる。

作品の先にあるもの。それはこのプロジェクトに参加した想いでもあり、個々の持つ身体の歴史。

身体の向こうにあるその人そのものの奥行きが伝わるかどうかが、この作品の最大の鍵。だから、本当はテクニカルのことや美術のことをレジデンス中に詰めていくのが賢いのだろうが、そこに到達出来るかは、正直分かりません。でも、ここでソフトの方に重きを置いてしまうと、多分この作品は、ブレたまんま、何やったのか分からない30分になってしまうと思う。

集中するし鬼にもなるけど、のびのびいきたい。


11.25

伊東歌織 作・演出作品「uRu・guLa!!」

伊東歌織 作・演出作品「uRu・guLa!!」の
作者本人によるクリエイションブログです。

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