仙台、鳥取公演が無事終わりました。自分の余裕の無さに比例し、ブログが全くストップしていました…。

勿論今も、余裕の無さはヒートアップ中ではあります。

でも仙台、鳥取で自分が陥ってしまった事、楽しめた事、悔しかった事などをざっと書きなぐる感じで記しておこうと思います。

◆仙台◆

仙台では、主に11月からずっと取り組んでいたストーリーメインの流れ、そして分かりやすさとはどういう事なんだろうと言う事をとにかく考えて創っていたように思う。

つじつまが合っていない間の部分を、どうやって分かるようにするのか?

この事は、結果的にはいつか物凄く役に経つ日が来ると思う。

でもダンスとして、仙台バージョンは説明的になってしまって動きそのものの面白さよりも、空間やモノで表現する事がメインになってしまった。

当初やろうとしてた、それぞれのキャラクターの個性への落とし込みが何処かへ行ってしまった。
踊った、という実感が薄かった。それは、シーン数の多さと展開の速さ、扱う要素の多さが原因だと思う。

これらを踏まえて、一から作り直さなければ、と一人で勝手に決意してしまった。

この辺から、鳥取へ向けての構想がバババと頭を駆け巡り、本当に勝手に、何も考えずに突っ走りそうなところで、色んな問題に直面した。

◆鳥取◆

鳥取では、作品の事よりも自分の性格的な甘さを思い知った事が一番の収穫だと思う。

作品は、自分なのだ。
決められない自分、間に合わせない自分、伝えきれてない自分。

それ以前に、ここに来るまで、作品を変えるという事への了解を取る事や、周りへの配慮の無さが人との衝突を生んだ。

ダンサーとしての自分の頭で、全てを動かそうとしていた事に気付いたのは、鳥取公演終了後の打ち上げにて、佐東さんに指摘されての事だ。

ずっと水野さんやアドバイザーの彩子が口を酸っぱくして言ってくれていた事が、頭ではなく実感として分かった。

鳥の劇場の中島さんにも、「本当の意味で分かる時は人それぞれだからね。」と言われた。だから、前日にゲネを観た中島さんは私に何も言えなかったんだと思う。
つまり、昨日今日位の短い時間で何を言っても、混乱させるだけで本当に言わんとしてる事が伝わらないだろうと思ったんだと思う。

◆演出家という視点。
客観的に作品を捉える視点。
目の前で起きてる事が、伝わるものになっているのか?
目の前に居るダンサーを、本当に見ているのか?
やりたい事とやれる事の違い。
やりたい事が作品とズレていた時どうするかの自分の判断。

ただ舞台に立つのが好きで、それしか無いと思ってて、ずっと踊って来てしまった脳みその少ない人間が、それに気付いてあと残り二週間でどうしようと言うのか?

そのざまを、どうか是非劇場に観に来て下さい。