和歌山から帰ってきてから、じっくりと作品を見つめる時間もないまま、来週末行う別の作品稽古に没頭しています。ね、ねむたい。。。。

ただ、和歌山で得た、色んな不味い後味。それは、主に自分にとってはこの先の宝であることは間違いないのですが、それをそのまま、ひとまずはポンと置き去りにしている状態です。

私は日々、生きているから考えが変わる。ということは当然、作品が変わる。

作品は生きている。死ねない。

さて、しかし作品を創ろう、とし過ぎると、何かが死ぬ気がする。つまり、物凄い矛盾が生じる。

人は勝手だ。管理したい、こうなってほしい、支配したい、こう踊ってほしい、これが観たい。と言う。

それに反して、依存して、構ってほしくて、必要とされたくて、ウロウロと蠢くのだ。

私が野放しにし過ぎても、管理して整理しすぎても、ダンサーも作品も同時に死ぬことになる。

お伽噺でもなければ、独り言でもない、その合間の中に見え隠れする叫び。生身の、強い作品を、どうにかして、とても絶妙なバランスで、構築していきたいのだが。

ああ、しかし、私の求愛の感覚と、ダンサーの求愛の感覚はまるで別物だろう。それをどのように伝え、引き出していくかが大きな課題だ。日々、どんな感覚を求めているのか?支配と依存、どちらの傾向が強いのか?もっと掘り下げて、奥を見つめて底を見たとき、その自分に対して思わず笑っちゃうのか。笑えないのか。

私は案外、笑っちゃう方かも知れない。