報告するぜ!!
感想対談3 山崎広太作品『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』について
2016年03月18日



今年1月から、札幌、松山、八戸、仙台、神戸と巡回公演をして、3月に福岡公演までが終了した。残すは3月26日、27日の東京公演となった。東京公演ではAプログラムの3作品(平井優子作品、山崎広太作品、梅田宏明作品)が上演される。

「Aプログラム」というのは、30分程度の新作ダンス作品をこの「踊りに行くぜ!!セカンド」で制作し、上演するというもの。

福岡公演後、報告するぜ!!の 佐々木治己と、踊りに行くぜ!!プログラムディレクター水野立子が、Aプログラム3作品の「感想」を率直に言い合うという対談。

対談:

佐々木治己(報告するぜ!!)

水野立子(踊りに行くぜ!!プログラムディレクター)

山崎広太作品『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』

撮影:yixtape

歌声vs暗黒のダンスに血が沸きました(水野)

山崎さんが言ったのは滅亡の遺伝子なんじゃないか(佐々木)

佐々木:今日初めて見ましたが、この作品は、面白い面白くないという判断ができないですね、何か越えてしまってますね。

水野:いや、ホントに同感です。札幌以来、毎回やられましたね。しかもステージ毎に踊りの密度が濃くなっていくのが凄まじい。どうしても説明できない何か重要なこと、ダンスでないと表せないかけがいのない何かを感じました。

佐々木:ネタバレとかにもなっちゃう部分があると思うんですけど、ネタバレどうこうって話でもないですよね。舞台で、音源から歌が流れたりすると、その歌が凄ければ凄いほど、歌が凄いだけじゃないかって引き気味に思ってしまうことがあるんですが、山崎作品は、拮抗というよりも、その歌を更に引き出している。音楽は勝手にボリュームあげようと思えば指先ひとつでボリューム上がりますよね、ダンサーはそんなわけにはいかない。しかし、そんなことを全く意に介さないっていうんですかね。それによってダンサーたちの中に色んな変化が生まれてたりして、山崎さん自体が目的を持ってるのか、無目的なんだか、動き回っているのを見ていると見てる方が苦しくなっていくっていうような感じがあります。簡単に判断できない。これに付け足すことって特にないな。というか、こういうのが見たかったなって思いました。

水野:うんうん。「私は生きている」と熱唱する歌声vs暗黒のダンスに血が沸きました(笑)。佐々木さんが、心動かされたその根源って何でしょうね。

佐々木:山崎さんが色々話しますよね。そこで「自分の体ってなんなんだろうか」と、とても正直な話をしている。そして自分の体に疑問を持とうが、そこには体はあるということをまず受け止めていく。そのあと、ぞれぞれの3人の踊りも、いまいち掴み所がない。本人たちの中で何かを完遂しようとしているというのは見える。何かをやろうとしているのが見えるっていうのを、見ている側が、さてどうしたものか、と思うときに、突然変わり始める。

私が、最も奪われたのは、西村未奈さんでした。色んなものが彼女に降りているのが見えたと言いますか。山崎さんのトークにある「先祖から伝わるこの体に記憶があるんじゃないか」って話していたことが、未奈さんの踊りを見ながら克明なイメージを持って出てくるんですよね。未奈さんの中に、これまで人類が繰り広げた無駄な抵抗や、さまざまな被害、虐げられたものだったり、虐げたもの、人類の反省や破壊などが、ガーッと集まってる気がしちゃって、もしかしたら山崎さんが言ったのは滅亡の遺伝子なんじゃないかみたいな気持ちになりました。ブラックホールってそういうことなんじゃないかと、勝手に妄想してました。

水野:なるほど。私も今回の舞台に闇、暗黒をつくり出したことがすごいなと思いました。闇というのは全てを包み込む力を持っているというかね、しかもそれは負ではなく、とてもエネルギーに満ちていることがわかって、暗黒に吸いこまれた感ですね。

福岡公演終了後、未奈さんが「もっていかれた」と言って茫然としていましたね。踊りに魂を持っていかれたみたいな。何かが乗りうつって何者かに踊らされているような、踊りに何かが宿ったように見えましたね。山崎さんは“自分なりの舞踏”っていう言い方をします。

今、舞踏って一括りにできないくらい幅があると思うんですよ。誰もが同じものをイメージしてないかも、って思います。大野一雄・土方巽の両巨頭がいて、カンパニーも指で数えられた時代があったけど、今はもはや日本だけの専売特許でもないですし、世界中で欧米人もアジア人も「自分は舞踏をやっている」という人が大勢出ていますしね。ここまで広がったということは、すごい影響力ですね。同時に、舞踏という定義が、ひとつではなくなったということ。これもまた面白いなあと。

撮影:富永亜紀子

確固たる宣言があるような気がしました(佐々木)

今どきのポップソングって、あなどれないですね(水野)

佐々木:白塗りしてゆっくり動いて奇怪な感じなどの見世物としての舞踏の側面が受け入れられていたんだと思いますが、徐々に、舞踏の思想的な部分、つまり制度批判などの「前提を問う」という部分が豊かな広がりとして再び見出されてきたんじゃないですかね。

水野:山崎さんの今回の作品での“舞踏”の何に感動したかっていうと、空っぽの体を観れたことでしょうか。佐々木さんが先ほど言ったブラックホールと同じことかもしれない。誰も自分のことを踊ってない。山崎さんが舞踏譜を書いてダンサーに渡し、そこからダンサー各々が踊りをつくっていくという方法論。踊る対象が自分の中ではなく、外にあったということですね。これはもともと本来の、って言ったらアレかもしれないですけど、舞踏の方法論のひとつだと思います。自己の内面を表現するドロドロした人間の苦しさを踊るのが舞踏だと思われがちですが、そうじゃないんですよね。今回は、初めて舞踏譜を踊るダンサー3人が、自分の持っているダンサーとしてのテクニックを基に、新鮮に舞踏譜を踊るという入り方で、そこも観る側からすると自由に見えたんじゃないかな。

佐々木:いいなって思うのは、舞踏はフォルムじゃないし雰囲気でもないっていうような、確固たる宣言があるような気がしました。何もないという部分も含めて向き合う。だから山崎さんが「この作品は成立してないです。」と言えるのも、成立しなくったっていいっていうのを宣言してたりするわけですね。で、スキゾフレニーという分裂症のことを、分裂症は統合失調症と言うようになっているみたいなので、イメージしにくいですが、そういったスキゾ的なものを、ただ単にまとまりがないってことでもなくて、なんかこう最初から自分の中に何もないっていうのが当たり前になっていて、なんでそうなっているのか分からないし、目の前に映ったものがなんなのか分からなくなるというようなことが伝染してくるんです。ミスドとミスタードーナッツの話なんかも分かり易いんですけど、違うようでいて同じものなんですけど、違うんですよねっていうようなことを言うっていうのも、舞踏って僕は言ってますけど、その舞踏ではないんですよね、というように、説明してて、私もよく分からなくなってきますが、目の前のものがそのままなのに変化していくということを見ている気がしました。

水野:(笑)そうですね、もはや、こだわることがなくなっているところが面白いですね。山崎さんが何度か舞台を出たり入ったりして話すことは、舞台で行われているよくわからないダンスの手がかりとして、とっても楽しめます。必ずしも山崎さんが喋ることと、ダンサーが踊っていることは、直接関係ないこともあるのですが、体を見て、言葉を聞く、その往ったり来たりする作業が、ダンスを増殖させるようでイメージが湧いてくる。そして、作品の経過する時間の中で、単純に積み上げてきたものが最後に爆発する。その時間の積み上げ方がぶっ飛んでいて面白かった。

12月に稽古場で拝見したときは、まだしっくりこなくて、こういうポップな曲で舞踏をやってみせるっていうのが、どうなるのかな、と思える段階でしたが、唄と舞踏が拮抗するところまでくると、はまりましたねえ。

山崎さんにこの曲を使うことにした経緯を聞いたんですが、未奈さんにSiaのTV生出演で踊る話が来て、その時の曲がこの「Bird set free」と「Alive」だったそうです。ちょうど城崎国際アートセンターでの滞在制作に入る直前の出来事です。この出会いから、作品にこの曲を使うことになったそうですよ。これも縁ですねえ。Siaの歌声ってものすごいソウルフルなボイスですよね。で、この2曲とも歌詞を読んだんですが、驚くほど闇!えーこれポップソングの歌詞でいいのかー?っていうくらいネガティブから始まり、それを暗黒のポジティブに昇華させるという(笑)。今どきのポップソングって、あなどれないですね。魂がゆっさゆっさされるようなシャウトするこの曲に対する踊りは、ジャンプしてクルクル回ることなんてまるでしないダンス、地に足つけて舞踏をやるというのがかっこいい。

佐々木:身悶えしてる。(笑)

撮影:yixtape

それぞれ3人のダンサーがとっても自由にみえる。やらされ感ゼロ(水野)

チャーミングであっけらかんとしていますね(佐々木)

水野:踊りは手足を動かすことだけじゃないんだっていうね。その凄さがもう何回観ても飽きない。唄声・体・ダンス・舞踏という相乗効果に心震わせられたなあ。

佐々木:山崎さん演出の方法論は、アイディアでとってつけたっていう感じがしないんですよね。違う時間の人たちがそこにいるっていうのが意図的だし、ダンサーもそういう人を選んでいる。こういうことって頭では思っていてもなかなかできないんですよね。公演のためにプランを考え、みなで寄り添っちゃったり、寄り添わせちゃったりするので、どうしても違う時間というのは現れにくい。

水野:あのダンサーたちは舞踏譜を淡々と踊るだけですからね。

佐々木:そこですね。それぞれ引きずり込まれないながらも、ときに共有するような。そして、どこかチャーミングなところも全体的にありますよね。

水野:それぞれ3人のダンサーがとっても自由にみえる。やらされ感ゼロ。

佐々木:チャーミングであっけらかんとしていますね。カラっとしてますよね。

水野:普段から舞踏をやっているわけじゃない武元加寿子さんはモダンダンスの大御所だったり、広太さんとやるのも舞踏も初なので、舞踏っていうものに、戸惑いっていうものがあったそうですよ。

佐々木:なんか楽しんでる感じにも見えるし、意味も追おうとしてないところがいいです。そういう意味では山崎さんが言うところの「暗黒」に安心して飛び込んでるように思えます。で、山崎さんが「暗黒はなんでも構わないんです。」というようなことを言ってから、あの音楽がバーッと流れてくるわけじゃないですか。そういう構成や見せ方のうまさもありますし、でも、この作品の良さって、そういう細かいとこじゃないんだなと思います。

水野:そうですねえ、何なんでしょうねえ。この軽やかにステップを踏んでみせる山崎ダンスと、未奈さんの舞踏。正反対のものを呑み込んでしまう暗黒の圧巻さ。私は未奈さんのこの踊りをみていると、ビデオでしかみたことがない芦川羊子さんの舞踏とダブって見えたんです。

神戸ダンスボックスの大谷さんが、北方舞踏派の若手舞踏手として小樽の拠点にいた頃、海猫屋というショーをやっている場所に芦川さんが踊りに来てくれた時の話を聞いたんです。芦川さんは、舞踏の顔の表情のため歯を全部抜いて入歯にしていたらしいんですね。歯なしで前を向いて婆ぁの表情で踊り、後ろを向いた瞬間に、大谷さんが入歯を渡し、ぱっと芦川さんが入れて、前を向いたときは扇を使って妖艶な少女を踊るという。その婆ぁと少女の入れ替わり自在の踊りに、未奈さんがダブって見えたと聞きました。

撮影:金サジ

形から真似るんじゃなくて、土方巽の記憶と呼応する(佐々木)

踊りはこれくらい自由で万歳(水野)

佐々木:土方巽さんが「喋っても喋っても喋りきれないことを知ってしまう、体は。」なんてことを言いますけれどもね。土方さんがやったことの真似や、雰囲気の模倣ではなくて、ひとつの参照項として土方巽を引くのは、可能性があると思っています。それは梅田宏明さんの話ではありませんが、ひとつのメソッドの基礎をどこに見るかってときに、土方がやってきたことを追う作業ってひとつあると思うんです。そして、この山崎さんの場合は、形から真似るんじゃなくて、土方さんの記憶と呼応するというものでしたね。

水野:そこツボですね。面白いのは土方さんの書いていることや、舞踏がわかる、という視点じゃなくて、わからないんだ、というところから寄り添っているところですね。山崎さんの話したことに、捕らわれなさが見えました。言葉には人に意味を伝える言葉と、表現する言葉、ダンス的な言葉があってもよいという。正直、誰もわからないですよね「病める舞姫」のテキストは。舞踏がなんか暑苦しく感じる時は、無理して見えるというか、こうしなければいけない、というところに持って行こうとすることかなと。この作品に自由度を感じるのは、こういう言葉へのアプローチにもあるのかな。それぞれのダンサーも、自分で言葉と体に向き合っているから、無理がないんですよね。その上で、もっと、という稽古はしているけど強制で振りをやってくださいとかではない。

佐々木:ああしろこうしろってことでやってないんでしょうね。きっと山崎さん自体も具体的なヴィジョンを見せてないのではないでしょうか。作品を見ても、これが舞踏だ! これが踊りだ!というヴィジョンを見せてるわけではありませんよね。山崎さんが出てきて喋っていきなり踊り始めるときに、どっからでも踊るよというような踊ることへの構えのなさみたいなのが新鮮でした。

水野:小説もどっからでも読んでもOKというのが、現代の小説だという時代ですからね。踊りはこれくらい自由で万歳、って感じですね。

佐々木:あざとさがないので、喋りにしても、逆につっかえるのを待ってるっていうか。喋り方も流暢な喋り方のところもあるんですけど、なんか出てこないのが面白いっていうか、土方がいう「口籠る」というのがそこにあるような気がしました。そういう意味ではさっきの楽しかったどうだっていうよりも、なんか僕は妙な愛しさみたいなものを感じました。

水野:佐々木さんはどんな言葉でも詰まる時ないじゃん(笑)。

佐々木:それは僕がダンサーじゃないんじゃないってことなんでしょうね(笑)。今日、見た時は圧倒されたんで、びっくりしてます。この舞台は、びっくりして欲しいなっていうのは思いますね。

水野:そうですね。いいもの見たなっていう熱い思いに客席が湧くっていうか。雰囲気はありますよ。

佐々木:ありますね。

撮影:金サジ

身近な人間の切なさに感じる(水野)

途中で横山やすしに一瞬見えたところがあったんですけど(笑)。(佐々木)

水野:顔の表情で踊ることを山崎さんは「顔芸」って言っているのが笑えるんです(笑)。舞踏では「顔芸」ってダメ出し的な使い方でしたけどね。顔だけでやるな、っていう。未奈さんが顔の筋肉がすごく柔らかくて、顔芸を数年前から研究していたらしですよ。N.Y.のコンテンポラリーダンスで流行ってきているとか。にしても、未奈さんの顔芸は表面だけではなく、内臓からくる踊りとして、伝染しそうでしたね。

佐々木:山崎さんが引用した土方のインタビューは、最初に東北の話が出てきて、それも別に東北礼賛ってわけじゃなく、東北が日本にいかに搾取されてきたのかっていう話なんですよね。山崎さんの問題系になっている資本主義ともそこは重なるかもしれない。この服(まつろ)わぬ者をどう考えるのかというが出ているような気がします。服わぬ者は、能や歌舞伎などでも題材にされますが、服わぬ者が鬼になったりするんですね。つまり、鬼の形相っていうように、顔が普通の顔でなくなる。これは虐げられたり、服わない、反抗するというのが、異形の者になるっていう中央からの視点があります。例外もありますが、異形っていうのは分かりやすく言うと、被抑圧者のイメージだったりするということもあって、そのとき、未奈さんの有り様が、この人はずっと殺され続けてる記憶を繰り返しているという感じがありました。その横でパーっと、踊っている広太さんがいるっていうのが妙に心にくるんですよね。

水野:佐々木さん、すごい想像力。肯定と否定、生と死、というようなわかりやすい対比にも見えましたが、それが全て暗黒という闇にむかっているのがおもしろいなあ。山崎さんの資本主義への否定と、分裂というものが、1個の体からどうとでもイメージできるというのはいいですね。実際に舞踏譜を公開するって言ってくれてるから、あそこで何やってるか知りたくなりますね。

佐々木:それは東京公演の前に公開されるんですか。

水野:クリエイション・ドキュメントに書いてくれるようです。未奈さん、瑞丈くん、武元さんのそれぞれの舞踏譜があります。

佐々木:何が書いてあるのか、みたいですね。

水野:ただ土方さんの暗黒舞踏を模倣しているのではなく、婆あの形相から、赤ん坊まで地についた舞踏をやりつつも、流行歌、おしゃれな衣装、そういう軽さのバランスを計算している同時代のものを感じるんですよね。

佐々木:懐古的ではないですよね。

水野:だからこそ遠い舞台上のことではなく、身近な人間の切なさに感じるね、彼女の踊りから。

佐々木:こう被害者意識みたいにしてしまうと、傷つきやすさ自慢のような気がしてしまって、演劇などでも、被害者のフリをするっていうか、被害者の代弁みたいなことが結構あると思うんですよね。傷つきやすさを出すことで優位な関係性を作ろうとする逆転した抑圧の構造を出してるような気がするです。そうなると無反省ですよ、絶対的な被害者ですから。でも未奈さんの踊りは傷つきやすさを感じない。

水野:強さですよね。

佐々木:そうなんですよね。でもその人がずーっと何かをやられてる感じって、でもそれは自分でやってるかもしれないし、それは全然何かはわからないんですけど、傷つきやすさのアピールはしてない。何か人類の歴史みたいなものを見てしまうというか。

水野:私はなんか笑えるところが結構あるっていうか。

佐々木:笑えるところもありますね。途中で横山やすしに一瞬見えたところがあったんですけど(笑)。あそこも見事ですよね。あの3人のところも。

水野:それぞれの舞踏、それぞれが魅せるよね、3人が。あれがすごいと思う。端役と主役という構造にしない。

佐々木:踊ってないときに立ってるじゃないですか、後ろに二人が。あれも妙に亡霊みたいな感じがして惹きつける。あの人たちがまたバーって入ってくるっていうのにまたちょっとドキってするんですよね。圧巻ですね。

水野:圧巻だよね。そういう意味では、今の時代にこれが見れたっていう。

佐々木:嬉しかったです。

撮影:金サジ

東京公演

2016年3月26日、27日

会場:アサヒ・アートスクエア

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