報告するぜ!!
感想対談1 平井優子作品『Ghosting~軌跡の庭』について
2016年03月15日

今年1月から、札幌、松山、八戸、仙台、神戸と巡回公演をして、3月に福岡公演までが終了した。残すは3月26日、27日の東京公演となった。東京公演ではAプログラムの3作品(平井優子作品、山崎広太作品、梅田宏明作品)が上演される。
「Aプログラム」というのは、30分程度の新作ダンス作品をこの「踊りに行くぜ!!セカンド」で制作し、上演するというもの。
福岡公演後、報告するぜ!!の 佐々木治己と、踊りに行くぜ!!プログラムディレクター水野立子が、Aプログラム3作品の「感想」を率直に言い合うという対談。

対談:
佐々木治己(報告するぜ!!)
水野立子(踊りに行くぜ!!プログラムディレクター)

平井優子作品『Ghosting~軌跡の庭』

撮影-富永亜紀子

平井さんは「外」からやってくる

水野:今回初めてですか?

佐々木:はい。福岡で、はじめて観ました。

水野:平井さんの上演は今まで、札幌、松山、仙台、今回で四箇所目。

佐々木:平井さんの作品は公演ごとに作品に変化があると聞いていましたが、前日のゲネプロと比べても、小さな部分とはいえ、私の中で重要だと思っていた部分も変化していました(笑)。

水野:そう。毎回新作!がメンバー間の合言葉です(笑)。平井さんの今日のアフタートークで佐々木さんが質問された中で印象的だったことは、山崎さんの暗黒との共通点の話で、山崎さんは「内」を向いているんだけど、

佐々木:平井さんは「外」からやってくる。

水野:自分は「外」からっていうのは、同じ「闇」とか「見えないもの」を扱うときに、自分の内面ではなく照明、音、映像などの外的な要素をつくりあげて、その外的な世界から影響を受けてダンスにするという方法ですね。

佐々木:見ていて、これがひとつの魅力かなって思ったんですけど、外側のテクノロジーなり、音響なりの外からの影響に対して、観測をする、距離をとる、批判したりジャッジするんじゃなくて、わかりやすい受け取り方をするのでもなくて、共にいるというような面白さがありました。

舞台芸術の極上のエンターテイメント(水野)
現代を生きる上で見ないようにしているもの(佐々木)

水野:劇場でのリハーサルを見ていると、山崎広太さんと平井さんはやり方が真反対で面白いですね。山崎さんは、ダンスの稽古にほぼ全ての時間を使う。テクニカル的な部分は、イメージの希望を伝え照明や音響のデザイナーに任せてしまいます。平井さんは、かなり細かく照明の見え方、音響のサラウンドの聞こえ方、そして映像の出し方、全てのテクニカルの効果、タイミングをスタッフとずっと一緒に工夫を凝らしてつめていく。暗闇の中でずっと細かく演出しているので、メーキング映像を撮影しても真っ黒ね、声しか録れない(笑)。佐々木さんの先ほどの「ちょっとのことで変わる」って、そういうことですよね。そういう微細な演出があの作品にはとても重要なんだろうなあ。

佐々木:舞台にある全ての効果が、ただ効果としてあるというよりも、舞台にいるダンサーの平井さん、中尾さんの外から、いや、中尾さんも場合はとても難しいんだけど、「内」から「外」になるような、「外」から「内」になるような、それは、光も音も「外」から入ってくるし、「内」からに感じる部分もあるので、「内」「外」という線引きもできなくなってきて、平井さんが、その世界の渦中にいるようでいて、観測者としてもいるため、平井さんの内的世界かと一見思うんですが、そういうことでもない。すっきり言えないですね(笑)。

水野:佐々木さんどう思うのかなって聞いてみたいのは、この作品って舞台芸術の極上のエンターテイメントです、と紹介していいですよね。というのは、ディズニーランドやUSJのようなアミューズメントパークのような究極の娯楽を見せる為のものとは違うけれど、舞台芸術として一つの世界観を出すために、あれやこれや舞台効果を凝らすサービス精神満載ですよ。

佐々木:一つ一つがとても見る人を意識して作られていますよね。先ほどから触れている舞台効果にしても、効果という補佐の役割ではなくて、それぞれが直接的に見ている側と関わっていますね。楽しめる部分もかなりあって、テーマが「ghost(ゴースト)」「ghosting(ゴースティング)」ですから、明るく楽しいポジティブなエンターテイメントではない。かといってネガティブなものかというと、ネガティブではない。

水野:ネガティブではないよ。私は佐々木さんみたいに怖くないもん(笑)。月夜に照らされてGhost(ゴースト)が夜中に、タラリーンって一人遊びしているのなんて可愛いじゃない。

佐々木:(笑) ちょっと不気味ですよ。その不気味さも逃げたくなるようなものではなく、何かが起こるんじゃないかと思うからなんですよね。悪い予感に似たものなんですが、現代を生きる上で見ないようにしているものという方が近いのかもしれません。例えば、舞台芸術なんかもエンターテイメントとして成立しているのは、多かれ少なかれ、どこか楽しめるように作られたものというより、楽しむことが良いというような価値観が押し付けられているような気がするんですね。そういう意味では、そういった押し付けてくるような価値観はまるでない。

水野:それいいですね。楽しめないエンターテイメント。闇って子どもだけじゃなくて、大人も怖いじゃない本当は。真っ暗闇では眠れないという人もいるし。その闇の中に引き込まれていく感じが面白いなって。そういう意味では、アミューズメントパークの舞台芸術版みたいな(笑)。あの、超原始的な、何の仕掛けもなさそうな空間移動装置みたいなあれ、どこまで続いているの?って。

佐々木:最初、そういう不思議がありましたよね。あの先はどこまで深いのだろうか、と思いました。

水野:地球の裏側なのか、異次元なのか。あの二人が覗き込むときに、何が見えてるんだろうって。

佐々木:地下世界からの呼び声(笑)。

撮影-富永亜紀子

大人の童話(水野)
キャーとも、ワーとも叫ばず、その死体が腐爛していくのをずっと見ているような(佐々木)

水野:今日、ワードとして浮かんだのが「大人の童話」。「ナルニア国物語」のようなタンスの中に潜ったら向こう側の違う世界にいくとか、絵をじっとみていたらその絵の向こうの世界に行きつくような、どこか別の世界に繋がっているようなものってワクワク感があるでしょ?この舞台ではあれが異次元に繋がっているジャック。ボイスの詩の意味もそうだし、観客にとってのいくつかのヒントが具体として出てくるところが面白かった。

佐々木:童話、おとぎ話、メルヘンって言われるものも、原作を読むとちょっと怖い場面があります。『ピノッキオ』もアニメなどの子ども向けだと冒険譚みたいな面白さになりますけど、実際読んでみると首吊りがあったりしてぎょっとする場面もありますし、『ピーター・パン』も、大人になる前にみんな殺すみたいなことが書いてあったりしますよね。そういう意味で、平井作品はメルヘンなのかもしれない。子供も興味を持ちますが、大人になっても覚えているような一種不気味なメルヘン。

水野:グリム童話が容赦ないのは知っています。いまBSで「ワンス・アポン・アタイム」という西洋の童話『白雪姫』とか『ピーター・パン』の現代版大人のおとぎ話的なドロドロのTV番組でやっていますよ。平井さんは以前に村に伝わる昔話や伝統芸能の歴史のリサーチから作品を手がけたこともあり、寓話的なところから掘り下げていくことに興味があるようですね。可憐だけど、怖いグロテスクな世界観も持っている人だから。

佐々木:「死」というものの距離の取り方がそうさせるのかもしれません。「死」を考えたときに、今の自分ではない状態のものをどう見るかだと思うんですよね。こう、死体が目の前に転がっていたら、キャーとも、ワーとも叫ばず、その死体が腐爛していくのをずっと見ているような感じ。

水野:(笑)・・・えー。映画でありましたね、腐爛するまで撮り続けるやつ。この作品は違うでしょうけど。

佐々木:大げさに言うと。それをファンタジーと言えるか、怖いと言えるかというときに面白さがあると思うんですよね。平井作品の面白さって、判断を下さないところにあると思います。自分の価値観で死は怖いとか、そういった判断を下さない。「外」にあるものを当然のもののように受け止める。作品の細かいところは、どこまで変わってくるのか分からないので、ズレはあるかもしれませんが、全体のイメージとしてはそういうズレはないんじゃないでしょうか。
また、非常にサービス精神旺盛なので、それぞれの照明家も映像作家も音響家も、充分単体でも空間を満たしてくれる人たちが関わっているというのも大きいかなとも思いますね。

ダンスをするいうこと自体が、自分の「外」と同居する

水野:ダンス作品という範囲が「踊2」の場合は幅が広くて、今日の福岡公演の4つの作品でも違うタイプが上演されましたが、平井作品の場合は、ダンスと他の要素がイーブンに且つバランスが拮抗しあいながら世界観を作ろうとしている一つの形だと思います。

佐々木:平井作品のダンスも、ダンス作品だからダンスがあるという感じでもないんですよね。ダンスをするいうこと自体が、自分の「外」と同居するような感じがするんです。ふわふわした佇まいのように、そこにいるってだけでも成立する作品なんだとも思ういますが、そうしない。なぜ動くのか、意識的に手足を動かすのか。それは照明が意識的に点くように、音響が意識的に流れるように、自分の体や在りようも意識的にあるっていうようなことを平井さんはやっているのかなって思いました。

水野:二人の体があって、私、ともう一人はシャーマン的存在。どっちが実像なのか、影なのか、立場が入れ替わっていきながら、区別がつかなくなってくる。ボイスの不思議な声が、「見える、見えない、消える、消えろ」って聞こえてきて、いつの間にか自分が人には見えていない存在、見てもらえない存在になる。闇の中に紛れた「魂」のような存在になってしまったのかと思いつつも自覚が持てない。すれ違う時に見えていない、触れられない存在。そうすると自分が見えているけど、この人は何を見ているのだろうと疑いたくなってくる、そういう隙間に孤独感がくる時ってないですか?そういうのを思い浮かべてしまいましたね、今日の舞台では。

佐々木:そういう印象は確かにありますね。二人のダンサーが出ているんですけど、2人という区別ができなくなるときがありますよね。

水野:どっちが魂でどっちが実像だったのか。どっちが私で、誰がシャーマンなのか。

佐々木:シャーマンがメルヘンの世界の案内人のようにも見えるわけですよね。あのシャーマンは、『不思議の国のアリス』でいったらチェシャ猫なのかもしれませんし、そういう何か呼び込んできたきっかけのように見えますし、もちろん、平井さんの妄想なのかもしれないし。

撮影-富永亜紀子

闇がささやく

水野:不思議な作品で、見ている間によその世界に連れて行かれそうなんだけど、結局は見ている自分の心の中を覗いているような、そういう意味ではイメージが行ったり来たりして膨らむ作品ですよね。

佐々木:「闇の中のアリス」みたいなキャッチコピーがいいかもしれないですね(笑)。

水野:それいいかも。闇がささやくんですよね。音や言葉でイメージを作るのが上手いなと思ったんです。AGFさんというドイツの音楽家なんですよ。今フィンランドの海に囲まれた島に住んでいて、城崎での滞在制作の時に参加して音を作ったんです。平井さんは前からAGFさんのファンで、一緒に制作したかったんですって。今日の作品の不思議な日本語は、平井さんがローマ字で書いた日本語をAGFさんが音として読んでいるそうですよ。だから意味があるけど、無いような音になっていて、それがとてもうまく水先案内になってましたよね。

佐々木:音が舞台上だけで鳴っているだけでなく、客席もどんどん巻き込んでくるから、平井さんの闇の世界みたいなものに、こっちも侵食されていくような感じがします。スモークもたくさん焚くじゃないですか。「こっちに来る!煙が来る!」って思いました(笑)。
何かが「外」からやってくることを体感させられますね。平井さん自身も「外」からやって来たのかも、シャーマンに煙を焚かれて、夢を見させられているのかも、と体感させられますね。作品としての完成度もとても高いと思いまし、この作品は幅広く楽しむ人が多いんじゃないかと思うんです。とっつき易い部分もあるし、それでいてどこか説明しがたい部分もありますしね。

水野:不在の存在。いなくなってしまった人の存在を気配みたいなものとして感じる。舞台で「気配」という言葉をよく使うけど、意外に気配を主役にするって難しい。舞台には、はっきりと目に見える明かりとか煙とか、ダンスとか体があるんだけど、本当に見せたかったものは、見えない方、気配なのではないかと。その見えない存在をみせるための入れ物として、実在のない庭をつくった。別の言い方をすると、いなくなってしまった人と密会するための秘密の庭として。闇に紛れていたGhostに会うために。そういうものを感じさせられた舞台でしたね。

佐々木:魅力的だなって思ったのは、不在を扱ったり、いなくなった人を見るときって、どこかノスタルジックになってしまったり、追悼的なものだったり、祈り的なものが、でてきやすいと思うんですよね。でもそれが一切ない。ノスタルジーもないし、祈りもないから。不在を観ている人に押しつけてこないんですよね。

撮影:yixtape

東京公演

2016年3月26日、27日

会場:アサヒ・アートスクエア

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