2016年03月17日
今年1月から、札幌、松山、八戸、仙台、神戸と巡回公演をして、3月に福岡公演までが終了した。残すは3月26日、27日の東京公演となった。東京公演ではAプログラムの3作品(平井優子作品、山崎広太作品、梅田宏明作品)が上演される。
「Aプログラム」というのは、30分程度の新作ダンス作品をこの「踊りに行くぜ!!セカンド」で制作し、上演するというもの。
福岡公演後、報告するぜ!!の 佐々木治己と、踊りに行くぜ!!プログラムディレクター水野立子が、Aプログラム3作品の「感想」を率直に言い合うという対談。
対談:
佐々木治己(報告するぜ!!)
水野立子(踊りに行くぜ!!プログラムディレクター)
梅田宏明作品『Movement Research – Phase』
“おおーなるほどー!”とだんだん見えてくる楽しさ
水野:「報告するぜ!!」の飯名さんにも言われたんですけどね、私、踊りの許容力が狭いらしいんです(笑)。佐々木さんは?
佐々木:私は極狭ですよ!
水野:やっぱり、そうですか!(笑)
同じ狭派として、最初は梅田さんの作品にどうタッチすればよいのか、手がかりが掴めず難しかったですね。JCDN佐東の「山崎広太作品と梅田作品は真逆に見えるけど、とても似ている。」という発言を聞いても、何のことやら全く意味がわからなかった。でもね、さすがに4箇所の巡回公演でリハーサルを入れると10回以上観続けて、梅田さんにインタビューをして、この作品で梅田さんが振付のメソッドを開発しようとしていることや、Somatic Field Projectを始めようとした背景がわかるようになって、「報告するぜ!!」の飯名さんから「この作品は、ダンサーの個性を見るのではなく、遠くから俯瞰してみるもの。」とヒントをもらったりするうちに、ようやく“おおーなるほどー!”とだんだん見えてくる楽しさを実感しているところなんです。なので、今日はまず、極狭の佐々木さんに先輩風を吹かせて聞いてみようかな(笑)。この作品を初めて観た時に、何か取っ掛かりは掴めましたか?
自分がダンスに何を望んでいたのかということを教えてもらった(佐々木)
その人にしか踊れないダンス作品ではなく、誰が踊っても成立できる作品を目指す(水野)
佐々木:掴めなかった。それは、自分がダンスを見るときに、ダンス全体よりもダンサー単体に興味があるということなんでしょう。もう少し言うと、ダンサーというよりも、そこで動いている人に興味があるということでして、大きな作品性も重視していたつもりだったんですが、梅田作品を見て、自分がダンスに何を望んでいたのかということを教えてもらったのかもしれません。演劇を見る場合にも、もちろん、俳優が興味の大半ですが、なんだかんだと劇作にも興味がいってしまいます。こんなセリフを書いた人はなんだ?って直接的に作家にも興味がいくのですが。
水野:あれれ、既に梅田作品をみる視点がズレていますよ!(笑)佐々木さんの場合、役者やダンサーじゃなくて、作者に興味が?
佐々木:ええ、梅田さんにずらされた気がします。梅田さんの作家的な意図を初見では汲めなかったんです。演劇でいうなら劇作をやっていたと思うんですね。普段、舞台を見ているときには、そういう劇作的な面に興味がいくのに、やっぱりダンサーが見たいんだ、と思ったんですね。梅田作品はダンサーしか出ていないんだから、「ダンサーを見てる」わけなんですけど、最初に観たとき、ちょっと私には良く分からない事態が起こっているなと思いました。
今回特徴的だと思ったのが、梅田さんのメソッドをやっていれば、ダンサーは交換可能な作品ということだったと思うんですね。そういう交換可能ということがまず解らなかった。コンテンポラリーダンスを見るとき、ダンサー個人の魅力は、作品と切っても切り離せないと思っていたので、交換可能と言われると、それで作品になるの?と紋切型に思ったのが正直なところですね。
水野:そう感じる見方も多いでしょうね。「踊りに行くぜ!!セカンド」は再演を重ねるのが売りなんですが、「公演ごとに出演者を変えたい」と梅田さんから希望が出たんですよ。これは初めてのことで、最初はギョ!?としましたが、ただ考えると、ダンサー入れ替え可能な振付作品を目指すということは、その人にしか踊れないダンス作品ではなく、誰が踊っても成立できる作品を目指す、つまり共通するムーブメントや振付のメソッドを発案すれば、作品が成立できるということに、梅田さんが挑戦しようとするのであれば、「踊りに行くぜ!!セカンド」はダンスの発明を目指すプロジェクトなので、その趣旨に合っているわけです。
佐々木:一個人のダンサーの良さとか、作品がたまたま偶然でも、ただそれだけで良かったっていうものでなく、それがある考え方、基底をもったやり方で、ダンサーたちがそれを元に共有しながら発展していくというのが、梅田さんの目指しているところなのかな、見終わってから徐々に思いました。
水野:そうだと思います。梅田さんは、いわゆる”無名性の身体”の価値を活かしているようですね。八戸公演の会場が、勾配が急な客席で舞台を見下ろす形だったんですね。飯名さんの助言もあり2階から観たのですが、松山で観たときとは印象がまるで違って見えましたね。ただ、この時はまだ“見えた!”というところまでいけなかったんですが。
ドライアイスを触ったときに走るような痛っ、という冷たく熱いヒトへの眼差し(水野)
佐々木:観る側の欲望としてダンサー1人ずつを見ちゃいますね。
水野:私もそうなんですよ。ついついね、ダンサー1人ずつを見たくなってしまう。でもですね、じゃあダンサーが代わっても全然関係ないかといったら、そうでもないんですね。今回は2公演ずつダンサーが代わったんですが、そうするとやっぱりおかしなもんで、作品全体の見え方も印象も変わってくるんですね。
佐々木:とはいえ、ある種の個性というのはあるわけですよね。
水野:そう。人間的内面性じゃなくて、フォルムだったり、骨格の違いからくる個体差、体の動かし方のスピードだったりっていうのは違うわけで、それが個性として作品全体に影響するのは面白いですね。梅田さんのいう”個と群の境を失くす”ということに関連もあるようです。狭派の私にとって、梅田作品の見方はスロースターターだったわけですが、神戸公演後、佐東に「見方にコツがあるんだ」と言われ、飯名さんから「自然科学」というキーワードをもらい、梅田さんから「暑苦しい表現は嫌い」と聞き、私が作品をみて一番、感じるのは、デジタルでクールな見かけの下にあるものは、ドライアイスを触ったときに走るような痛っ、という冷たく熱いヒトへの眼差しのようなものでした。
佐々木:今度の東京の公演を観に来てくれる人は初めて観るわけじゃないですか。これは手引きが必要なダンスなんじゃないかと思いました。私は最初に観たとき、なんだよーって思ったんですけども色々後で考えて、あー観て良かったと思うところがあるんですよね。なので、まずは観てもらって、この梅田さんの作業を追いかけたくなるようなものがあるんじゃないかなと思います。
もしかしたら舞踏的な群舞かも(水野)
同じ基礎をもってそれぞれが反応するように動く(佐々木)
水野:梅田作品をみていると、ダンサーひとりの個と集団の関係、成り立ちかたがおもしろいなあと思いました。バレエの群舞と舞踏の群舞というのは、かなり違いがあると思うのです。舞踏の場合、その他大勢というコールドバレエのような位置づけではないし、全員同じ動きだけを踊るわけではない。群舞で作品の全体をみせようとする、作品のウエィトとして群舞が重要な役割を担っている舞踏もありますよね?
佐々木:ありますね。
水野:そういう意味で言うと、梅田さんのいう“個と群の境を無くす”というのは、もしかしたら舞踏的な群舞かもなあ、と勝手に解釈していました。舞踏というと、大野一雄、土方巽、室伏さんのようなソロの舞踏手、やっぱり個体の踊りが立っているものが浮かび、同時に、山海塾、大駱駝艦、アリアドーネ、白虎社という集団の群舞の持つ力の見せ方を得意とするものがあります。私が舞踏集団に所属していた時、稽古でよく言われたのは、それぞれの動きが弧で独立して立ちあがることができて、且つ、それが群舞となって世界をつくり出せるものを目指すということでした。
佐々木:こうなると途端に梅田さんの作り方に興味が沸いてくるわけですけど、所謂、群舞が全部そうというわけではなく、群舞を作ろうとなったときに、ある一つのイメージですかね、それを分担作業する群舞もありますよね。また、それぞれが独立した1人としても動き、そしてときに一緒に動くというのもあります。群舞は群舞でも違うわけですよね。分かりやすくいうといわしの大群が大きな魚になるように分担して合わさってみんなで大きな魚の真似をするみたいなのは分担作業だとしたら、作業分担ではなく1人1人の意志、骨格は違いがあるけれど、同じ基礎をもってそれぞれが反応するように動くというのもありますよね。ある形のために踊るのではなく、踊るということの基底を共にするという意味の群舞とでもいったらいいのか。
水野:そうですね、1人1人が踊りを見せないと、群舞になっても面白くないよね。
ダンスの基礎っていうものをコンテンポラリーは作らなきゃいけないっていうような強い使命感を感じる
佐々木:意識的に継続できるメソッドとして作るということをされているんですかね。ある意味ではコンテンポラリーダンスは、私みたいな踊れない奴が舞台に出てくるような滅茶苦茶な状況になっているわけです。ダンサーでもないのに。梅田さんからしたらこんな奴を出させちゃいけないと、ダンサーのもとにダンスを取り戻す作業とでもいうんですかね。そのためには、ダンスの基礎っていうものをコンテンポラリーは作らなきゃいけないっていうような強い使命感を感じる作品です。
水野:そうだと思います。梅田さんが明確にしているのは、日本人発のオリジナルなコンテンポラリーダンスとして世界に認知されているものがまだない、そこを開発することで、国内外からアクセスできるメソッドを発明・発信したいという意欲。これって、アーティストとしてとても健全だと思います。演劇では一昔前で言うと鈴木メソッドから、最近では平田オリザ、チェルフィッチュの手法が海外に影響を与えているということですよね?
佐々木:現代口語演劇や、同時多発、静かな演劇などいろいろと言われていますね。
水野:15年間海外で活動してきて、欧米でのダンスの受け入れられ方の基準が、私的な表現にはアクセスできないということを実感しているので、日本人のダンスが受け入れにくいものであるから、まずはコンテンポラリーのムーブメントや振付のシステムを作り、そこから広がるものにしたいという目標が出てきたようですね。話を聞いていて熱いパッションを感じました。
佐々木:なぜ、いま、梅田さんがメソッドを作ろうとしているのかが、良くわかる話ですね。クールジャパンだけじゃ消費されて、悪い意味で見世物の一種で終わりますからね。
日本の中でコンテンポラリーダンスというものは、基準が無い(水野)
トンガっているようだけれども、どこかシャイ(佐々木)
水野:そういえば、神戸公演の時に、日本で殆ど活動をしてなくて海外だけでやってきた梅田さんと、日本で活動していてニューヨークへ拠点を移し10年になる山崎広太さん、それからニューヨークで30年以上活動してきて、日本で2年前初めて「踊りに行くぜ!!セカンド」で作品制作した余越保子さん、海外の長いこの3人が集ったんです。話題になったのは、日本の中でコンテンポラリーダンスというものは、基準が無いっていう話。普段、海外で上演しているままの作品を日本に持ってきても、観客に理解されないだろうなと。日本で作品を受け入れてもらうためには、日本の観客に向けてアレンジしないと無理だろう、という話題が出たんです。コンテンポラリーダンス作品が、それぞれ欧米や日本の文脈の中でつくられているから、その背景がないところにポンと持ってきても理解されないのでは、ということですよね。ピナ・バウシュやジョセフ・ナジのように日本で定着しているアーティストが、受け入れられる例はあるにせよ。まあそういえば、1996年いきなりニューヨークに行ってコンテンポラリーダンスを観た時は、本当に何を観ても理解できなかったですからね。
佐々木:それはそうなんでしょうね。ある種のダンサーのテクニックは私の場合は、見ても何にも思わない、「ふーん」みたいな反応になります。自分が知らないからというだけですから、違いも分からない。何か違うねくらいしか思わない。だけど、いろいろと話を聞いたり、レクチャーを受けたりすると面白いな、と思うんですよ。
水野:舞踏は日本人の体と日本の伝統芸能にフォーカスしてつくられ、コンテンポラリーダンスと呼ばれるものは、やっぱり西洋の舞踊をベースにしている人が多い。にも関わらず、欧米の人たちが「わかんない」「個人のもの」って言われちゃうのは、体というより思考性なんでしょうかね。
佐々木:これは課題ですね。そういうシンポジウムとかやった方がいいんじゃないかと思いますが、僕は作品主義というか、さっき言ったような個性しか見なかったんですが、梅田さん作品を観た後に、色々考えるにつけ、こういうような試みがどうなっていくのかなっていうのは見たいなと思いました。梅田さん個人にも最近興味が湧いているというのもあります。あのトンガっているようだけれども、どこかシャイな感じがある。そういう魅力も見たかったりしますが、梅田さんはいやでしょうね(笑)。
水野:梅田メソッドは、そんなに簡単に成就できるもんじゃないけれど、完成まで軽く十年はかかるつもりで、それでもそれに向って行くんだっていう、目標を見据えているところはすごいですね。そうそう、神戸公演の打ち上げで山崎広太さんが梅田さんに、「この梅田さんのメソッドをすごい太っチョとか、おじさんとか、コミュニティの人に踊らせたら、無茶苦茶、おもしろいですよね、大流行しますよきっと!」と言ってました。確かに!
東京公演
2016年3月26日、27日
会場:アサヒ・アートスクエア