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今年の上演作品紹介 -その2 山崎広太作品 取材・文:みずのりつこ
2016.03.17

山崎広太作品 『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』

作品紹介/インタビュー記事

福岡公演 photo:富永亜紀子

山崎広太はrocy.coというカンパニーを主宰し、間違いなく1990年代の日本のコンテンポラリーダンスを引率してきた振付家と言えるだろう。2000年に入りN.Y.に拠点を移してから15年が経過し、今では、アメリカ国内をツアーできる作品を定期的に発表するダウンタウンの振付家として活動している。

私が山崎さんの踊りを間近でみたのは、1999年rocy.coが初めて京都公演を行った時。作品のラストシーンで、ダンサー山崎広太の全身から飛び散る汗とエネルギーの塊を撒き散らしながら踊っている姿は、人間の思考を超えた制御不能な生き物のようなオーラを放っていた。1993年からの活動歴一覧はこちらから

N.Yに移ってからも、何度か作品を観てきたが、振付に専念することが多くなり、あの広太節ダンスを観る機会がほとんどなくなってしまった。最初に京都で舞台をみてから15年ぶりに、今回「踊2」での作品制作で振付家としてダンサーとして山崎広太さんと再び出会うことになった。

今年1月、巡回公演のスタート地だった札幌での初演後、アメリカツアーがあり一時米国に帰国。1ヶ月後、神戸公演を終えた楽屋でインタビューに応じてくれた。

「舞踏は人生の転換期にいつもやってくる。
この作品は、僕の人生においてはすごく重要で、自分の転換期となる作品です。」


山崎広太の作品は、バレエ・コンテンポラリーダンス・舞踏と一つのジャンルではなくベースとなるダンスが多岐に渡る。rosy.co時代は、フォーサイスに影響を受けたムーブメントが色濃く見られたが、2001年「踊りに行くぜ!!」札幌公演で、自ら「なんちゃって舞踏」と名付け、白塗りして踊った時はかなりぶっ飛んでいた。あれから15年、アルトーや土方巽の暗黒舞踏に、自らのスキゾフレニック性を重ね合わせ、今回、「そろそろかな」という思いで暗黒をテーマに舞踏に挑戦する。

「10年前から、作品における分裂=スキゾフレニックの方向は変わらないのだけど、今回は自分にとっての舞踏と言えるものを作品全面に入れました。それがダンスとして成立できたことは、すごく発見でしたね。振付家人生の中でこの作品は重要なポイントになるだろうと思います。」

確かに、これまである意味スタイリッシュな完成度を目指してきた山崎作品の印象とは異なり、「これは未完成です」と、敢えて自身が作品中に言及する。この“作品を放棄する”という行為、開き直り感とでも言おうか、重要なところは作品自体の完成度にはない、つまり構造じゃないんだ、という視点が見える。そして、そのことが作品に、より自由度を与えているように見える。山崎以外に、3名のダンサー笠井瑞丈、武元加寿子、西村未奈の全員が、まるで違う時間と空間で踊っている演出が施されている。それが山崎の特色とも言える手法だ。ひとつの空間に、独立した世界観を踊る舞踏が際立つ。

15年ほど山崎さんとパートナーとして共に活動をしてきているダンサー西村未奈の踊りを見ていると、山崎広太の得意とするムーブメントが生き写しのように出てくることがある。そのことを伝えると未奈さんは、「広太さんは、私のダンスの師匠だから。」と答えてくれた。15年という歳月を共にすることで、その人の持っている独特のダンスの記憶というものが体に蓄積されていくのだろうか。今回多くの人から、西村未奈さんの舞踏を評価する声が聞こえてくる。

「それはうれしいですね。一番最初に、彼女と出会ってつくった作品は舞踏だったんですよ。彼女がまだ20歳そこそこの時、白塗りをして舞踏をやったんです。それで失敗したの。舞踏が難しい踊りではないからこそ、逆に一番間違えやすいのは外側から舞踏を与えてつくってしまうという方法。やはり、舞踏って時間が必要ですよね。実は、彼女自身も舞踏譜をテーマに、3年くらい前から作品をつくってきているので、そういう時間の積み重ねもあってのことだと思いますね。

僕自身も何回も舞踏的なことをやって失敗してきているんですね。で今回、僕も土方さんが亡くなった同じ年齢になって、そろそろかなっ、という感じで挑戦してみようかと。2001年の札幌での時もそうでしたけど、人生変わるときは大体舞踏に入るんだね。(笑)今回は再度舞踏にトライしている感じですね。僕の人生においてはすごく重要な作品ですね。」

言葉とダンス

舞踏譜からダンスをつくる


作品中で山崎の発する言葉が、かなり重要な役割を占めていて面白い。最初、毎回喋ることが変わるのかな、と思ったけれどそういうわけではなく、支離滅裂なようでいて作品を示唆する方向性が示されている。山崎作品でこれほど作品に言葉を持ち込んだのは、初めてのことだろう。山崎が作品を暗示するように観客に語る言葉と、他のダンサーが詩的なセリフのような言葉を発したり、時として動きと同時に擬音のような音を発声したり、舞台上には異種の言葉が入り組んでいる。山崎にとって、<言葉と体>をどう位置づけて考えているのだろうか。

「身体は勿論面白いのだけど、言葉って結構面白いんですね。土方さんの「病める舞姫」は、まあ読んでもあんまり意味がわからないですよね。あれは、ダンス的な意味の言葉だと思うんですね。今回の作品中で僕が喋る言葉は、「伝える」って意味の言葉ですが、僕にとってリアリティのある言葉は、ダンス的な視点から積み込まれていくものかもしれない。体はどんどん変化していくので、毎日が即興でやるというのが僕の方向性です。」

今回初めて舞踏譜を書いたという。舞踏と言葉が切り離せない存在だと誰もが認識しているのは、暗黒舞踏の創始者である土方巽さんが、踊るのと同じくらい言葉を踊らせていたという印象があるからだろう。昔の映像を見ても、言葉を巧みに操る魔術師のように、人の体にすっと入り込む言葉を繰り出す天才だった。考えてみれば、言葉で舞踏をつくるということが、今では当たり前のことになっているが、これは相当な発明だったに違いない。パントマイムの表現が「何か」を動きで表現することであるとすれば、舞踏の場合、その対象としての「何か」は、描写できる実在形がないものだ。土方巽は、その形のないものを言葉にして、体を具体的に動かす術を知っていたのだろう。逆の言い方をすれば、自身が優れた舞踏家であったから、踊らせる言葉を持っていたと言うべきか。芦川羊子という舞踏家をつくりだしたように。今回、舞踏の経験がほぼないダンサーたちにとって、リズムや曲に振付けするのではなく、山崎から舞踏譜を渡されて、そこから振付してください、と言われてすんなりいったのだろうか。

「僕が舞踏譜を書いてダンサーに渡す。皆が自分なりにアレンジしてつくる、ということをしましたが、もちろんすぐには出来ないですね。今もできてないですけど。けれど、僕の場合は日本舞踊のように1ミリ単位まで明確なことを振付することはしてなくて、なんとなく時間を過ごすことによって自分の方向性を理解していくことが重要だと思っています。作品のためには、絶対にこれとこれとこれは、やってください、というコレオグラファーではないのです。」

札幌公演 photo:yixtape

N.Y.のポスト・モダンで流行っている“顔芸”

舞踏と共に暗黒を考える


神戸公演 photo:金サジ

山崎さんは“顔芸”という言い方をする。演芸みたいで笑える。舞踏のあの独特の顔面の表情だが、あれも重要な踊りの一部。歌舞伎の見えを切る表情、昔はろうそくの炎の照明しかなくて、薄暗いのでよく見えないからメイクを濃くしたり、顔の表情を大袈裟にしたりというところから始まったらしいが、舞踏では最大マックスの内面の感情が顔にまで達した時の顔面、という解釈だったが、山崎さんの“顔芸”説は新しい。

「舞踏っていうのはカラの身体って言うくらいだから、口の中の風景を感じる。口の歪みから顔に行く、つまり体の視点を変えることにより、表情が変わっていくようなシグナルを出しているのは口の中からなんですね。感情から入ると顔芸はできない。悲しみという情感からやると、表情が硬くなって顔が固まってしまうから。どんどん変幻自在に変わっていくっていうのが僕の基本的なダンスの考えですから、顔も同じだと思っています。」

なるほど、体が変幻自在に変わっていくように顔もその先にある表情として、変わっていくことを目指すということか。

「最近、N.Y.は顔芸が流行っているんですよね。笑っちゃいますよね。顔芸しながらモダン・ダンス踊ってるんだよね。(笑)ポスト・モダンで顔芸やるなんて今までありえなかったし、ダメだったのにねえ。これって、未奈が広めた感じですよ。ただ、彼らは舞踏の表現の一つだとわかってやっていないと思いますけどね。表層から真似て入っているだけですけどね。」

山崎広太は舞踏を日本人のためだけのものとは捉えていない。この暗黒計画を他の国のダンサーとも試していきたいと考えているようだ。来年はN.Y.で舞踏計画2を開始予定。
「舞踏と共に暗黒を考えるって非常にエキサイティングですよね。」

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記:山崎広太 当日パンフのテキスト

ビックバンから始まったこの宇宙は見えない暗黒物質と見えない暗黒エネルギーによって生成されていると言われています。この見えない暗黒という概念を意識的に作り出すことは、多くの可能性を秘めていると感じます。例えば資本主義社会における市民と社会とに関しては、見えないネットワーク、見えないコミュニティの形成が重要に思いますし、資本主義社会に呪われた身体にたいして、いつなんどきとも絶えず変化し続ける暗黒にフォーカスし、ソマティック・プラクティスを通すことで新たに解放できる可能性があるようにも感じます。

これらを踏まえた僕自身のダンス作品に関して。まず作品を放棄することイコール他者性が重要なメタファーです。それと暗黒のマテリアルによって、奇想天外なことを組入れることが実現可能ではないかと思ってしまいます。僭越ながら、土方さんの東北歌舞伎計画はそれを察知し、セゾン劇場に向かっていたのではないかと推測します。

今回「踊りに行くぜ!!2」によって、初めてフォーカスできたかもしれない舞踏。この暗黒へのイントロダクション作品「足の甲を乾いた光りにさらす」を、またけっちょんけっちょんにけなされると思いますが、僕のダンス人生を変えた合田成男さんに捧げたいと思います。


神戸公演 photo:金サジ