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岩淵多喜子作品クリエイションブログ

02.14

終演後に感想を語る筆者


その6 平成23年2月14日
「とりっとダンス」メンバー みきさんより。
「とっりとダンス」を終えての感想。

今回は昨年の9月19日・20日に行われた「鳥の演劇祭Ⅱ」での「とっりとダンス」を再編成されたものでした。基本的なダンスは変わりませんが、内容をぎゅっとオレンジジュースを濃縮したものになりました。私個人的なテーマとして、「言葉の老い」を考えました。言葉に力がなくなってしまったのではないか。言葉が人を感動させなくなってしまったのではないか。「身体と言葉」の関係については、いろいろと議論されてきたと思いますが、言葉も身体表現のひとつです。身体からの溢れてくるような想いを言葉にしたかった。ダンスのなかでそれができたかどうかは、わかりません。見に来ていただいたお客様が感じてくれたかどうかだけです。

 言葉は老いていくのか。時間のなかで、過去の中で老いていくのか?否。人と人の関係で老いていくのか?否。男と女の関係で老いるのか?否。物と物との関係で老いるのか?否。言葉を使っている人の感性の中で老いていくのではないか。
 過去の思い出の中で引き裂かれた傷の痛みと生まれ出てくる苦悩との関係の中で、こころが触れ合ったものが言葉だ。

 私たちは老いていく。それは自然なことです。しかし、言葉が老いていかないのは、こころの触れ合った関係が輝いているからだ。痛みに耐えながら、生きていこうとしているからだ。

 ダンスの終わりに、鹿野地域の民謡が流れる。長い間歌い、踊り続けられた「鹿野さんこ」だ。その踊りに海の波の音が重なってくる。薄暗い世界と言葉のない世界が重なり合う。私たちは波の音に飲み込まれてしまった。静寂の中で私たちは言葉に向き合い、耐えているのだ。

沈黙してしまう言葉がある。永遠を捕まえようとしているからだろう。私たちは一瞬、何かの間に永遠の言葉を捕まえたような気になるが、それは幻だ。
海辺のさざなみに似た言葉の数々が見える。けれども、私たちはその音を聞くだけで、発することはできない。でも、言葉は私の胸にあり、力強く息づいている。


01.25

箱男作品ノート by みき

「とりっとダンス」メンバー みきさんより。
とりっとダンスの箱男(一場面)より。

一人の男が舞台で体を動かしながら、回転している。独楽のようだ。
「一人で楽しんでいる」と書く独楽だ。そこへ、ひとりの女性が現れて、箱馬を手に、肩に、頭に乗せていく。
アクロバットではない。
次々と乗せられていく箱馬に体の自由が奪われていく。社会人となって家庭・会社・地域での責任やしがらみが絡み付いて、
身動きができなくなるようなものだ。男は一心に踊り続ける。「自分は一体何をしているのだろうか。」
考えることなく、働き続けたように、回り続ける。
 突然、男はこの「しがらみ」に気づき、自由を求めた。積み重ねられた経験や役職・責務をすべて放り投げたのだ。
男は自分が投げ出したものをちらっとみつめ、後悔などしない。
自由に歩き、消えていく。あとには、箱馬が残っているだけ。


01.06

「とりっとダンス」メンバー みきさんの作品ノート

その3 平成22年12月14日 

とりっとダンスのはじまり(一場面)より。
舞台がいつ始まったのかわからない。ブランコで遊ぶ子供の声がする。砂場で遊んでいる子どもいるようだ。がやがやと楽しい声が聞こえている。
舞台の中央の椅子にすわった人のゆっくりとした動作から始まる。
空間に浮かんだ大切なものを掴み取るように、ゆっくりと両手を広げていく。
掴み取ったものを抱え込みながら、倒れこみ、また立ち上がり、今度は地面にあるものを掴み取っている。掴み取りながら、体はもがいている。
もがきながら、中央の椅子へ帰ってくる。そこで、再び、前よりも大きなものを掴み取るようにゆっくり動いている。
そして、つかんだものを吐き出すように、体から「言葉」「コトバ」「ことば」の言葉が発せられた。掴み取ったものは数々の無言の言葉であった。そして、椅子から立ち去っていく。

わたしの座った椅子に温もりは残っているか。言葉の滓は残っているか。

その4 平成23年1月6日

とりっとダンスの海辺の棺(一場面)より。

波の音が聞こえる。棺を持った男女がゆっくりと海辺を運んでいる。どこへ棺をもっていくつもりなのかわからない。誰の名前の棺であるかもわからない。
棺は遠い過去から、深い海からやってきたのかもしれない。
歩き終わると棺が解体され、それぞれの個別のブラウン運動をおこす。

箱をもった男女の動きが止まり、ひとつの塔ができる。それはひとつの墓の象徴でもあり、海辺をさまよった言葉のあつまりでもある。過去の思い出や人間が海辺から進化した歴史の証かもしれない。その塔もいつか崩れていく。海辺の砂の城のように。

いつの間にか数人の男女が箱を下に置き、しゃべりだす。
思い思いに、ランダムに。箱にことばをつめていく。いや、箱に日常生活の不満を吐いているのだ。思いの丈を吐き尽くすのだ。呼吸が苦しくなって、顔を上げる人も居る。我慢強く、ことばに耐えている人も居る。
誰に聞かせるのでもなく、自分だけが何をいっているのかもわからないぐらいにしゃべる。ただ、しゃべる。箱にことばをつめていくのだ。

今度は、しゃべり終わると静かに立ち上がり、リズムを取り始める。箱につまったことばのエネルギーを利用して、激しく動き出したのだ。動きは箱の上に乗った動きだけでなく、ことばの海辺となった会場を走り出す。そして、時には、過去を思い出すようにゆっくりとした動きになる。懐かしい昔をおもいだすようにスローモーションだ。ダンスは早くなったり、遅くなったりしながら
続いていく。


12.13

とりっとダンス メンバー みきさんより。(西浦 幹茂)

日常生活の中で何か足りないと感じている。映画の「フラッシュダンス」のはちきれるような若い勢いはない。
僕には、体から流れる汗が照明にキラキラ輝くことはない。
現在放映のNHK「てっぱん」の踊りを見て、「いいなあ」と思う。楽しく、お好みを焼く姿が連想できる。
汗を拭く動作、鉄板の上のかつおぶしの様子が見えてくる。日常生活の動作が素直な身体表現になっている。
ただ、そこに思想を求めることはできない。もちろん、思想や文学性を求める必要はないのだが。

 「とりっとダンス」が求めているのは、もちろん身体的表現ですが、日常生活の中から一歩踏み込んだ非日常を見てみたいのです。
 言葉が溢れすぎている、情報が流れすぎている日常生活の中で、自分の場所を確認したいのです。
「舞台」と言う非日常の世界で、自分の殻・仮面を脱ぎ捨て、一人の人間のままに「舞台」に溶けていきたいのです。

さて、来年2月6日に開催の「踊りに行くぜ」Ⅱに“とりっとダンス”が参加します。
来年の公演のためのリハーサルを12月2日から5日の4日間、作者の岩淵多喜子さんが東京から来てくれて、「とりっとダンス」のメンバーと行いました。
9月19日・20日「鳥の劇場祭3」で上演した作品を会場もスタジオから劇場へ移し、ブラッシュアップするためのリハーサルです。
表現者としての完成度を高く設定して取り組んでいます。
メンバーは仕事勤めをしながらですので、全員がそろって、全体を通しての練習はできませんでしたが、それぞれの役割部分を点検していきました。
今回の予定では、演技の時間が先回よりも短縮される予定ですので、各部分でのメリハリが決め手になるようです。

 谷川俊太郎さんの詩をイメージしてつくられたダンスが、今回どのように身体表現として進化したのか、自分たちも楽しみにしています。
ゆるやかな記憶はゆるやかに、激しい記憶は激しいように。ひとつ、ひとつの日常が非日常に変わり、舞台でひとつの大きな流れとなります。

 空間に浮かんだうつろいの言葉を掻き集めることからはじまり、海辺での言葉の沈黙を感じ、そのあとのカーニバルの言葉の数々。
社会の壁にぶつかる狂気と呪縛など。
本当は、あらすじの解説はいらない。
見て、感じ、自分の中に言葉が生まれてくればいい。いや、言葉はなくていい。
自分が無言の中でも、周りには無数の言葉に包まれていることを感じてくださればいい。

見に来てくださった方々を心温まるものにしたい。ことばの重みと軽さ。沈黙の中で満ちてくる言葉の数々を等身大に表現していきます。
寒い時期になりますが、木枯らしの言葉に耳を傾けながら、これからも練習は続きます。


09.18

12月6-8日鳥の劇場にて、「ANONYM」−とりっとバージョンーのリハーサルを行います。


12月6-8日鳥の劇場にて、「ANONYM」−とりっとバージョンーのリハーサルを行います。岩淵多喜子さんによるblogは、このリハーサル後、12月下旬に掲載いたしますので、どうぞお楽しみに!

下記は、鳥の演劇祭3 2010/09/19,20 公演の当日パンフレットに掲載した文章です。

「ANONYM」-とりっとバージョン-

この作品は「時」と「記憶」をテーマに綴られるコラージュ的作品です。
作品の創作にあたり谷川俊太郎さんの「anonym」という詩を作業の土台として用いました。‘anonym’は「作者不明の」という意味です。「歴史」というものを考えた時、多くの人の人生は歴史に残るものではありません。それは‘偉業を成し遂げた人の’あるいは‘大きな事実’によって把握されている場合が多いですが、実際には歴史には残らない‘小さな事実’、‘日々のつまらないこと’、‘些細な事’の連続によって歴史は成立していると言っても過言ではありません。私はこの作品で、日常の中の‘小さな事実’、‘言葉にはし難いけれども何か些細で大切なこと’に光を当てたいと思いました。
人にはそれぞれの身体や心に刻み込まれた「記憶」があります。意識的に、そして無意識的に、それは生まれた時から、あるいは生まれる前から個々の生活や経験とともに染み付いているもので、それは、それぞれの人の「個性」に繋がっているものと言っても良いかもしれません。今回、「とりっとダンス」の皆さんと出会い、それぞれの個性から醸し出る豊かな表現に多くのインスンピレーションを受けました。その大らかさ、生真面目さ、ユーモア、、、つまりは「人らしさ」が、作品のテーマと共鳴し、光をあててくれています。

この作品は、詩や「原風景」の絵から掘り起こした、記憶や印象の断片を集めたコラージュ的作品です。この作品を通して、私がこの2週間、この自然豊かな「鹿野」の地で、「とりっとダンス」の皆さんとの作業の中で掘り起こした、「時の流れ」、そして「言葉にはし難いけれど、何か大切なこと」の感覚を観客の皆さんと共有することが出来たなら大変嬉しく思います。

この作品を創作する機会を与えてくれた、「鳥の劇場」の皆さん、スタッフ、JCDN、そして「とりっとダンス」の皆さんに心から感謝致します。

2010/09/18
岩淵多喜子


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