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【福岡Bプログラム】ゆみうみうまれ インタビュー①「ゆ・み・う・み・う・ま・れ」・・・??
2016年12月25日
福岡 Bリージョナルダンス

ゆみうみうまれ インタビュー ①

実施:2016年12月17日
聞き手:松本 博(元共同通信社記者)

舞踏を始めたきっかけ

いったいこれはどういうことなんだ?

ゆみ)子供の頃からじっとしていることができないぐらい体を動かすのが好きだったことと、母が踊り好きで、私は関西で9歳からバレエを習ったんです。スポーツもやっていて、大学は教育学部で体育を専攻。その時に創作舞踊がありました。80年代後半ですから、山海塾をテレビで見たり、大駱駝艦のチラシがポンッと手に入ったりとか、『なんだろうこれは?』と怖いもの見たさで、何度か舞踏の公演を観に行くと、クラシックバレエの先生が絶対にするなっていうことを全部してるっていうそんな感じ。『いったいこれはどういうことなんだ?!』という怖いもの見たさで世界観がくるっと変わった。大学を卒業してすぐにリクルートの子会社の東京本社に配属され、2年間働いたんですけど、その時期、大駱駝艦、白桃房、大野一雄さんとか、軒並み全部ワークショップを受けたんです。そのころに会社を辞めることになって。
松本)それはいつ頃ですか?
ゆみ)89年あたり。バブルバリバリの頃です。私はその会社の不動産融資部門に居たので本当のバブルでしたね。地上げの人たちにお金を貸すっていう、今から考えたら結構恐ろしいところ。その時は本当に無知で、言われたことを言われた通りに仕事をしてた。給料はすごくいいし、女性マネージャーもバンバン働いているし、みんなが希望に満ちてお金を使っていた。新年会をやるっていうときに『じゃあ踊ってみようかな』と踊り心が目覚めたんです。でも、踊ろうと思ったら天皇が崩御されて。その時会社が問題になっていたから、社会的にも新年会はするなということになったんですけど、天邪鬼だから、何人かで集まって皇居まで歩いて見に行ったんです。そこで新年会の踊りで使う予定だった仮面を持っていたので、それをつけて踊ったら、右翼のおじさんとかにバーンって倒されたりして、それでみんなで逃げて、タクシーに乗って右翼の人を捲いたり、すごいことになっちゃって雑誌とかにチョロッと載ったりして。もちろん会社のことは触れずに。そのあたりから急に、天皇制のこと、日本のヒエラルキー、権力主義みたいなものにも、疑問を持っていたので、会社に言われる通りやるっていうのも嫌だな、と思い始めた。
松本)あの頃は喪に服すってことで街も静かになっていたでしょ。それは覚えてるんですよ。スズナリだけが芝居をやっていたんです。それは観に行きましたから。街が暗い中でそこだけがやっていた。
ゆみ)大駱駝艦が常盤座の改装前のこけら落とし公演をやるってことになって、90年だったかな、それに出たいんですけどって言ったら「なに言ってるの?あなた仕事してるんでしょ?」って言われて。で「あっ、辞めます」って言ったら「じゃあ麿さんに挨拶に行きなさい」って言われて「行きます、行きます」って。新人なのに自分は舞台に子供の頃から出ていたのでいたため、結構舞台慣れしてて、「先輩ともイコールに話すのね、あなた」とか言われて。尊敬はするけれどもヘコヘコはしてなかった。ある舞台の本番で、上から大きなネジが落ちてきたハプニングがあって、そのネジが舞台に落ちているのが見えたんです。私たちは女性ダンサーは上半身を布団のようなもので覆い四つん這いに近い状態だったので視界はかなり限られていたんですけど、「危ない」って思って、それを舞台裾まで蹴って行ったんです。特に盛り上がっているシーンだったので、裏方に人たちはどうやってそれを取り除こうかヤキモキしていたらしく、終わってからみんなが「あれを蹴っていったは誰だ?」ってなって、「私です」って言ったら先輩とか裏方の人たちが「やるじゃない」って。すぐに溶け込ませていただいた。
松本)高給取りだったと思うんですけど、よく仕事をやめられましたね。
ゆみ)高給取りでしたよ。2年間だけですけど、お金も貯めて。大駱駝艦で「20枚のチケット売りがノルマ 」なんて言われたけど、私には不動産屋のクライアントがいっぱいいたから100枚くらい売れたんですよ。
松本)金粉ショーも体験しました?
ゆみ)しましたね。土方巽の未亡人だった元藤さんがやってた「将軍」っていう六本木のバーがあったんですが、大駱駝艦の女性はみんなそこに行かされた。
松本)だいぶ舞踏も下り坂のころではあるんですよね?
ゆみ)私が入ったころは先輩方がゴソっと辞める時でした。ドサ回りも少なくなり、みんなで共同生活することがなくなったりとか。大駱駝艦には丸々3年いました。93年までいたんですよ。女性グループ、桃夭会というのがあって、そこで東北ツアーに行ったりとか。
松本)多少制作なんかの手伝いはされるでしょうけど、演出家、構成の手伝いは全然せずに、舞踏手だけの役割で?
ゆみ)大駱駝艦で本公演をやる場合は麿さんの指示のもと、音楽も衣装も決まってるわけなんですけど、桃夭会っていうのは若い女性で集まって、それは自分たちで作ったんです。大駱駝艦は今は壷中天というグループで若い人たちを集めて、みんながリーダーっていう、一人一派という言い方をしているようですが、あれは素晴らしいですね。自分が必ずリーダーになるという自覚を持たないと、みんな下について行って受動的になってしまうから、麿さんのそういうところは素晴らしいなと思います。

オーストラリアへ

表面ではなく、奥に潜んだ文化の本質が明らかになる『DasSHOKU』
松本)それでオーストラリアに移住っていうことになっていくわけですか?
ゆみ)93年にオーストラリアに移住になったので、大駱駝艦にいたのは正味90年から92年までの3年間ですね。
松本)最初は誰かの作った作品に出るって形ですか?それとも最初から自分で創られて?
ゆみ)創っても、誰も作品には呼んでくれなかった。なので、ジャパニーズレストランで働いたり。語学学校にも通わないと、全くしゃべれないし。フリンジフェスティバルで自腹公演をやったりとか。最初は本当に全部自腹ですよね。舞踏とボディー、みたいな感じでワークショップもしました。とにかくあちこちでやり続けた。そんな中『Tokyo DasSHOKU Girl 』(99年)が一番のブレイクスルーになるんです。その前も好きなようにはやっていたんですけど、日本のことを引きずってたり、こっちの国にもなじめないし、自分の立ち位置が決まらないまま創っている感じだった。『DasSHOKU』っていうのは、「Das shock」。英語ドイツ語風に「The Shock」。「ショック」と「癒し」がクロスするクロスカルチャー舞踏キャバレエと呼んでいるのですけど、脱色するというのは、表面にある色をブリーチ(脱色)して、奥に潜む本当の色、カルチャーの本質を見てみたい、という感じです。特にオーストラリアは、クロスカルチャーの国、 多国籍な文化の国なので、みんながマルチカルチャー。でも、マルチカルチャーっていうけど実はみんなでステレオタイプ的に勝手なカテゴリーを作り上げてしまっている。私もそういう目で、日本人だ、という カテゴリーに単純に入れられてしまうので、『DasSHOKU』ではそのステレオタイプを「脱色する」っていう意味もこめているんです。

DasSHOKU SHAKE!
(オペラハウスでも上演されたダッショク・シリーズ作品 2005年)
ゆみ)自分のプロジェクトとして旗揚げしたときに、電撃ネットワークがTokyo Shock Boysって呼ばれている時で、あの人たちもサソリを食べて「Shock!」ってやっていたけど、私にとっての“Shock”っていうのは、ただお茶を飲むにもカルチャーの違いがあることとかにドキッとしたりする。例えば、お皿の洗剤を流さずに拭くとか、ただ毎日の日常の中ですごいカルチャーショックがある日々でした。
松本)バレエは上昇していく感じで、舞踏というのは激しく動かないというイメージがあるんですけど、『DasSHOKU』シリーズのころは伝統的な日本の舞踏みたいな感じですか?それとも脱・舞踏だとか、舞踏の再構築だとか、そういうお考えとかあったのかなと思うんですが。
ゆみ)大駱駝艦の舞踏は、全然静かな舞踏ではなくて、スペクタクルだからすごく動く。西洋では90分じっとゆっくり動いているだけが舞踏だと言われたりもしますが。もちろん土方巽さんや白桃房の本当に凝縮された舞踏っていうのはゆっくり動くのではなく、全部のディテールを追っていると結果的にゆっくりになってしまう、みたいな精密な世界です。私はそういった舞踏性、緻密に入ってくことは今でも必要なことと思っています。暗黒舞踏というと暗黒だけのような感じですが、明るいところも見ないと本当の暗黒は見れないんじゃないかということで、舞踏キャバレエというものを創った。舞踏は暗いとも思われがちですが、暗い中にもすごくおかしかったり滑稽だったりすることもあるし、明るいから楽しいのかっていうと内臓をえぐるようなひどいことが明るい顔で行われたりする。今起きている殺人事件なんてまさにそうで、明るいことだと思ってニッコリしながらグサッと刺したりだとか。だから闇と明るさは表裏一体の共存というか、舞踏キャバレエでは、そんな二面性を追求している 感じなんです。

『東京ダッショクガール』

私も含めて客の考えも脱色したい。
松本)そういうのは99年ごろからですか?
ゆみ)99年に『東京ダッショクガール』の公演をしました。ポスターでは、金髪をかぶってグラサンをかけた姉ちゃん、私なんですど、中指を立て「Fuck You!」っていうポーズをしてるんです。 当時メルボルンでは日本人の女性はなんでも言うこと聞いてくれて、着物着て綺麗にしていると思っている人も多かった時でした。「Are You Chinese?」「Are You Korean?」とか聞かれて「Japanese」って答えると「Wah!」と喜ばれることがよくありました。 それで逆差別的に持ち上げられるのも不思議だし、じゃあChineseやKoreanだったら何故Noなの?という疑問。というのもみんなが見ているテレビやメディアに踊らされたイメージもあると思うし、それぞれの経験もあると思うんだけど、やっぱり一面的なステレオタイプは「脱色」したいということからシリーズが始まりました。自分も含めてお客さんのとらえ方も脱色したい。それで『東京ダッショクガール』をまず初めにやりました。その次は日本人のキャストを使って、それを演出し直した形で『ダッショク・カルティベーション!』っていう作品を日本で公演しました。その場合お客さんが日豪で逆転するので、ステレオタイプ化させる西洋人、妙にもてはやされる英会話、などの題材にしました。たとえば、カタカナ英語しかしゃべらない日本人、「セクハラ」「リストラ」「ラブホ」など、英語の短縮語西洋語を使いまくる外国かぶれしがちな日本人。英語の発音を必死で勉強するんですけど、日本語の中にはない「v」や「th」の発音練習をしすぎて、唇から血がダラーと出てくる妙な日本人、など、ブラックコメディーと、ダンス、歌、台詞で埋め尽くした作品になりました。
ダッショク・シリーズでは、いつも、ある種、風刺とコメディ、その裏に潜む「暗黒」を探ってきたような気がします。『ダッショク・カルティベーション!』の次が『ダッショク・ホラー!』(DasSHOKU Hora!)、そして 4作目が震災後に創った『ダッショク・シェイク!』(DasSHOKU SHAKE!) です。
松本)そういうものをやってらっしゃる人はいらっしゃらなかったんですか?オーストラリア人や欧米人に。
ゆみ)メルボルンっていうのは結構ダーク好みで、ニック・ケイブもメルボルン出身だし、ダークな世界も好まれる。たとえば『ダッショク・ホラー!』の作品も、ホラーと言っても、怖いだけでなく、ガングロが流行った時代だったんで、山姥がガングロになったりするキャラを創りました。ガングロもある種ホラーじゃないですか。日本語で言うと「ほらっ、ほらっ、見て、ほら」っていう感じもあって。
松本)明るいですけどね、ガングロの人。
ゆみ)そう、楽しいんだけど、どこか心が傷ついていたりもする。そしてキティちゃん好きガールとかピンクの格好するキャラも作品には出てきます。そんな女子たちも、心がエンプティ―(空虚)になったり。都市伝説のようなたくさんの怖い話も、ホラーなんだけど、なんか面白かったり物悲しかったり。作品には舞踏的に怪談のお話からむじな(のっぺらぼう)のようなものが出てきます。顔のない女性がさまよっていて 、結局その人も「かわいいお目目がほしいわ」とか「かわいいお耳がほしいわ」とか「きれいな唇がほしい」とか、矯正したり、付け毛 をつけたり、商品化されて生きている。むじなも、少し怖げで、滑稽な感じもあるんだけど、自分の顔、アイデンティティを探っている人間の姿みたいにも見えりして。作品の中では、そんな風に、私のキャラクターが、ヤマンバからガングロになってムジナになりキティちゃんガールになり、それを「ほらほらっ!」とか、「こわ!」って見ているのが観客だという設定です。

「歓喜」「喚起」。「KANKI」っていう言葉。

自分が生きていく中でそういう人生にしたい。
松本)その一番最初の『東京ダッショクガール』が最初の転機だったと。その頃からすでにセリフも少し入ったりだとか、芝居的、演劇的要素とか入れてらっしゃったんですか?
ゆみ)私は舞台をジャンルで分けたくなくて、ダンスも音楽も歌も、カラオケも歌うし、しゃべりもする。どっちかっていうと大駱駝艦の舞踏も、その辺が有象無象に入ってきている感じがあり、そこから学んだような気もしますね。
松本)舞踏的なものと脱色と、全部入ってますもんね。
ゆみ)そうですね。ダッショク・シリーズを始める前までは舞踏っぽいことをしなきゃって自分を型に入れてやっていたんだけど、ある日、台所で思いっきり音楽をかけて好きなように踊っていたら、急に「これだ!」みたいな感じになって。いままで、舞踏だけにすがっていた自分が急に馬鹿らしくなって。なんでもいいから踊りにしたらいいんじゃないか! と思った瞬間です。
松本)それはいつ頃?
ゆみ)それは99年ですね。ダッショクの一番初めのきっかけは96年ごろですが。私の中では『DasSHOKU』がすごくブレーク・スルーするきっかけになったと思います。立ち位置がはっきりしない自分も、また、自分なんだと認めることができた、自分の混乱そのものを作品にした感じでした。私は「KANKI」というキーワードを使うのですが、自分も人もカンキしていきたい。 カンキには、喜ぶ「歓喜」と、ビックリさせられる「喚起」、そしてもう一つは通気性のいい換気。「KANKI」っていう言葉、ちょっとこじつけになるんだけど、作品が 「ぐさっ」とはらわたをえぐられるけど、何だか楽しい、それでもって何か気が流れてゆく。自分も生きていく中でそういう人生にしたいということかな。

リアリズムをいかに抽象化させるか

舞踏の暗黒と、社会的暗黒
松本)『DasSHOKU』からホラーを入れたりして、基本的にはそのやり方で来られてるんですか?見てみたらもっといろいろなテーマが、売春婦の人を扱ったりだとか、そういう素材が入ったりもしているんで、そういうテーマもお持ちなのかなと。
ゆみ)舞踏というものを考えた場合、今現在の暗黒舞踏とは、一体何なんだろうと思うんです。社会的にすごく安定した人がただ明るく生きている中で舞踏と言っても何か迫力がない。変な話、昔は、60年代、70年代は皆が必死になって駆け回って表現を探していて、それこそストリップ小屋で働きながら、たたき(大工仕事)をしながら、必死になって体の限界を出したみたいな姿の暗黒もあったと思うんですけど。私の場合、オーストラリアでたまたまな難民の方とか売春とか強制労働させられた人たちと舞台を創る仕事がありました。また、ギャンブル中毒でお金を何百万もすって家族崩壊した人とも社会活動のプロジェクトの一環で作品を創ったり。実はそれって結構暗黒の世界だなと思いました。社会的暗黒がすごく強い。自分から選んでやったわけではなく、たまたまご縁があって、そういう仕事をいただいて作品創りの機会に恵まれたんですが、舞踏性というものが、そういうところでものすごくリアルに生かされる感じがしたんです。舞踏の暗黒っていうのは、それこそ土方さんの生まれ育った東北の「闇」や自然界の闇みたいなものもあると思うんですが、そういう仕事を通して、人間の作っている暗黒、みたいなものもあるんだということを何回も考えました 。
2年前に、14年間強制的に性労働させられたタイの女性の振付をしたことがあり、彼女自身の体験をもとに何度かワークショップをし、その過程で、何度も感極まって「ウゥワァッ!」ってなってきたことがあったんです。演劇、舞台など、テクニックを超えた人間のトラウマみたいなのを「表現」していく姿。何ヶ月かのリハーサルの後、私も一緒に舞台に立ったんだけれども、自分の存在が 「これは嘘だろう」と感じたことが何度もありました。
松本)一緒に舞台に立ったんですか?
ゆみ)はい。舞台中で彼女になる役もしました。彼女は一人だと脆くなってしまうから、私が彼女の暗黒部門担当だったんです。(笑)たとえば彼女がパスポートを取られて軟禁されて叫ぶシーンなど私がやりました。そのシーンをリハーサルしている時、友人役をしていたはずの彼女本人が「ギャー!」と叫びだしたことがありました。でも、彼女が 彼女の役をしている私をなだめなければいけない、そんなプロセスを繰り返していくうちに、彼女の中で何かがフッと変わって、立ち方が変わっていった。舞台表現が生きてきた軌跡そのものになり、自分の真実に立っていった、みたいな。 彼女の中の十何年間のものすごいトラウマの記憶が舞踏の振りになっていく。それは舞踏って言ってしまわないほうが良いのかもしれないけど。生きていく中での暗黒の世界が、自然と舞踏の型だったり、闇にいる体だったり。
難民の人とか、アサイラム・シーカー(Asylum seekers) と言ってビザもない人たちが30人以上集まってやるお芝居もやったんですけど、彼らの「暗黒」的な体験はものすごい暗黒なんですね。命からがら難民になって逃げてきた人、眼の前で肉親が殺戮された人、など。そういう人たちが、心から楽しんで表現する姿はものすごい、 本当に喜んだ笑いが「ブワーッ!」って開く。
松本)性的強制労働をさせられた人や、ハンディキャップのある人たちと舞台創りをしたりをするときは、セリフだとか音楽とかは入ってるんですね?
ゆみ)つい最近のハンディキャップのある人たちとの作品ではほとんどストーリーテリングの感じはなかったですね。性的強制労働をさせられた人や ギャンブル中毒の人たちとの作品は、社会的な目的を持った芝居でもあるので、セリフ、台本はしっかりありました。ギャンブルをなくそうという政府の団体だったり、性的差別をなくそう女性を守ろうという団体だったりがバックアップしているということもあったので、ただの抽象ではできないですね。
松本)いわゆるリアリズム演劇とは違う訳でしょ?
ゆみ)私が振付で抽象化させていました。リアルなお話をいかに抽象化させるかっていう、大変な作業ですね。でもわたしにとって舞踏って、抽象的だけでなくても、日常の中にあっても良いと思うんです。舞踏の方は「いかに日常を消すか」みたいな、日常と非日常の二元論みたいなところに行っちゃう方もいらっしゃると思うんですけど、私はどっちかっていうと一緒になって、日常としてお茶を飲んでるんだけれど、そこに急に舞踏が入る、みたいな、っていうのが面白いと思っています。
インタビュー②につづく(まもなく公開