各開催地レポート
ゆみうみうまれ 『白い昼の夢 ~ White Day Dream 』 開催レポート

福岡公演 制作:津田朋世

公演が終わってもう数か月も経ってしまった。。

もう振付家も出演者も、各々、各自の生活に戻ってしまったけれど、 しかと足跡を残すためにも、レポートを・・・・

ゆみさんは関西出身だし、出演者も女子が多くてほぼ知った仲なので、 はじめっから雰囲気は、わきあいあい、何の曇りもない稽古場だった。 なんて、手のかからない現場なのかしらん、と思っていた。

なのに・・・途中、何かのきっかけで、糸がプツンと切れてしって出演者の一人が来ない・・・。

一方的にLINEで思いのたけを書き連ねて、連絡が取れない。 それをきっかけに、他の出演者たちも、この現状に対する不安や、 自分の抱えているもともとの不安などが出てきた。私もその一人。

途中、ゆみさんは、町医者状態。

「じゃあ、次。 あなたは、今、何に悩んでるの・・・?」

構成・演出・振付・兼カウンセラー。

稽古始めの2週間は和気藹々。 後半の稽古開始の数日間は、空気をさぐりさぐり・・・ この状況に私が悩んでいたら、オブジェの渡邊瑠璃さんが言っていた。 (忘れもしない、瑠璃さんはスーパーで買ったお惣菜食べながら、私はチキンをかじりながら)

これまで、(表面的かもしれないけど)仲良しこよしでやってきたけど、 ここで本当の顔が出てきた。皆、表面とは違う顔がある。良くも悪くもね、別の顔が。

それって、まさに私たちが作ろうとしているダンスの題材じゃない。二面性っていう。 夢と現実、REALとSUREAL、表の顔と裏の顔。 この状況は、誰かが意図的にぶっこんだのかと思った。

って。(確か)そんなようなことを。

ゆみさんは稽古で、柴原さんも書いている通り、それぞれの特性を引きだすために とにかく「自分をさらせ、割れ」と言い続けていた。 それぞれの深いところに関わって「割って」作品作りをしていた。

この作品作りのプロセスが今後、(私も含め)出演者や関わった人の血となり肉となっていくはず。

この舞台には生身の人間が乗っかった気がした。

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出演者 柴原あゆみ

出演者として作品を通して行った事のない世界へ向いたいし、いつものワタシが感じているものを破てその先へ向いたいという想いがある。

慣れた場所から離陸して足の届かない不安定さの中で自分の奥底から何が出てくるのか見てみたいという欲求。
そして、作家に委ね、作品に覚悟を持って望む。
ゆみうみうまれは慣れた場所から不慣れな場所へ移行した先に辿りつくことを『割れる』と表現した。
笑って笑って笑い続けて笑う事が何なのかわからなくなった先。。
泣いて泣いて泣きはてカラカラになったところにあったもの。。
胴体と頭を繋ぐ境界線を越えて振り回され続ける、頭。。
クラクラとして、、
何時を生きているのか?ココが何処なのか?一体いまは何時なのか?
クリエーション中のワークだ。

感情が出尽くした先、その行為が出尽くした先に隠されていた本物の自分自身に出会う。
割れたのだ。
感情や記憶の奥に仕舞い込まれたワタシがポツリと立っていた。。

白い昼の夢。。現実と夢の狭間を行き来する。。
ゆみうみうまれ は真っ向から割れる瞬間に立会い続ける。
そしてそれ自体が作品だった様に思う。

夢の世界は本当に夢なのだろうか?
見たいものだけ見て実感しているつもになっている現実の方がはるかに夢なのかも知れない。
意識が止める事なく偽りの意味付けをする事もなく、カオスのまま、、
自分の奥底のモノに出会う事が出来る場所。
割れた先にある。それが夢なのだ。
何かを破り出たいという欲求への答えはきっとそこでしか見つからないのだろう。

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出演者 中山将宙

「踊りに行くぜ!2」福岡公演に出演し、早一か月となり、、、
思い起こせば、あの日は嵐の様な大変な一日でした。

前日からの照明、音響との合わせの続き、ゲネプロ、本番、と書けば普通ですが、
自分の場合、ゲネが終わってからも演出を変えられ、本当にぶっつけ本番で、
あの草の獣の声を出すに至りましたから!
もちろん、今までの舞台の中で直前変更は幾度もありましたが、
まさか一度も練習した事のない、いや、生まれて一度も発した事のない音(声)を
舞台上で出すことになろうとは・・・、、、

しかし、自分が演じた役は「太古の記憶」「古獣」であり、最初の動きが忘れ去られた中に突如目覚める(産まれる)事であった為、あの場で産まれるのは必然だったのかも知れませんね(笑)。

当初の「砂を巻き上げる」案が没になって本当によかったと思います(笑)。
他の演者もゲネで巻き散らかされた砂に悪戦苦闘してましたから・・・。 ←(掃除も大変だった様で)

ともかく、この作品のクリエーションが始まって以降、一度たりとも同じ事を繰り返した事はないと思います。
練度、精度を高めるのではなく、鮮度、新度を常に心がけ、完成ではなく、継続・・延々と続くが繰り返しではない、
正解ではなく、未解・・混沌?無限にある正解のうちの一つを、たまたま、今やってみた、その繰り返しの様な。。

その中でもゆみさんが好ましいと思われたモノが吸い上げられ、拾われ、混ぜられ、煮込まれ、崩され、
美味しい鍋ができた!・・と思ったら、さらに新しい具材、ダシが出てきて、さらに味が、臭いが変わり・・

もう闇鍋状態です!(笑) ゆみさんしか味の想像はできなかったでしょう・・
きっと、ゆみさんでも想像までしか出来なかったと思います。

結果、あのような作品となりました。 御観覧頂いた方々、お味は如何だったでしょうか??

自分はかなり素晴らしい作品になっていたとは思っていますが(汗)。

そして、自分はゆみさんの他に感謝しなければならない方々がいます。

それは、美術家の武内さんと渡辺さんです!!

武内さんは大きな傘のオブジェの事でご尽力頂き、動きについても考察して頂いたりしました。

渡辺さんに至っては、たてがみの作品を動けるようにして頂いたり、草むらの中に椅子を配して頂いたり、

服を衣装に改良して頂いたり、メイクして頂いたり・・・細かい事を書いたらキリがありません!!

お二方とも、本当にありがとうございました!

貴女方のおかげで、自分の存在が五割増し以上になりました。

・・コンテンポラリーダンス公演なのに踊る事を封ぜられた今回の舞台。
抽象を具象化する事の難しさ、求められている事との差異を埋める事の大変さ、
舞踏の片鱗を感じさせて頂けた貴重な作品でした。

ゆみうみうまれさん、本当にありがとうございました!!

この作品に関わった全ての方々に夢に見るほどの感謝を!

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撮影:藤本 彦
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【福岡Bプログラム】ワークインプログレスを終えて・・・

初日の顔合わせが12月16日から始まり、正味9日間のクリエーション後に行われたワーク・イン・プログレス(WP)、途中経過発表が12月26日に終わった。
まずここで一区切り、以下、主観をまじえてレポート書かせていただきます。

ワーク・イン・プログレス(WP)
WPは博多区にあるパピオの大練習場、普段クリエーションとして使わせて頂いている場所で行われた。当日は、それまでに試行錯誤されたシーンを3つのセクションに分けて見せることにした。正直、この作品の骨組みや質感は、おおまかにしかつかみきれていなかったが、WPの前の晩に、テーマとしてある白昼夢という言葉を「白」「昼」「夢」の3つに分けるという考えが浮かび、そうすることにした。
1.「昼」日常のシーン
2.「夢」や幻想のシーン
3.舞踏的「白」の シーン

1「昼」日常のシーンでは、普段生活の中で使うジェスチャーや身振りを採集し組み合わせもので、感情表現やしゃべり言葉も使うが、やや「無機的」に表現する。その逆に、3.舞踏的「白」のシーンではもっと「有機的に」日常的な動作やモノが非日常に変わり、現代的なコンテキストの中で白塗り的世界に変容してゆき、また日常に戻る。2.の「夢」や幻想のシーンは、(まだ詰めきれてはないが)イメージとしてはおもちゃ箱をひっくり返したような、ハイテンポでメカニカルな動きを楽しくできたら、という意図だった。
3種類の違う種類の動きやボキャブラリー、質感を色分けしてみたらどうなるか、という試みから3つのシーンに分けてみた。
順番は未定だったので、当日は1つ1つを区切って、場面転換をしながら見せることにした。

今回、コラボレーションをする2人の美術家は武内貴子さんと渡邊瑠璃さん。舞台美術担当の武内さんには、白く薄い布で丸く筒状になったのものをプロトタイプとして製作してもらい会場に吊った。ドリームキャッチャー*をイメージした丸い輪っかもフラフープで創ってもらい、床に並べた。オブジェ担当の渡邊さんはセメント、土と縄でできた小さめのオブジェをこれも一つのアイディアとして製作してもらい、クシャクシャになった新聞紙の山と共に舞台奥におくことにした。舞台美術が、夢と現実を分ける繊細な薄い膜、あるいは境界、道しるべになり、オブジェが太古の記憶を吸い込んでいる土や断片、またそれを呼び起こす皮膚の感触の一部のような存在なのだろうか。そんな舞台空間をイメージしながら、3つのシーンを進めることにした。

*ドリームキャッチャー:あるアメリカンインディアンの輪を基にした手作りの装飾品。べッドの上に掛けることで、眠っている子供を悪夢から守ってくれる魔除けのお守りとしてみなされたりもする。「良い夢は網目の中央にある穴を通って眠っている人に運ばれてくるが、悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去る」とも言う。

当日、地元関係者、友人の方々が集まった。
質疑応答では、まだフィードバックをフルにもらうほど完成には近づいていないので、まずポジティブな意見・感想、そしてそれぞれの持つ印象を観に来ていただいた方からお聞きすることにした。以下幾つかを抜粋してみると

「ハマる気持ちよさとハマらない面白さ」
「離れているけどくっついていて、バラバラだけど一緒、悲しいけど楽しい、半分冗談で時半分真面目、みたいな感じでとても開放された」
「夢はふわっとしているものだと思ったが、結構リアルな夢が多かった」
「吸い込まれるような動きに背筋が伸び、ピンと張り詰めるような気になった」
「 多中心、どこを見ても個性、という太っ腹な作品かも」
「たちゅうしん?」
中心がたくさんあるということだそうです。

確かにも皆が中心となり軸となれば素晴らしいとは思う。余談だが、メルボルンで多国籍や多文化の背景を持つ人たちと作品作りをすることが多いので、signature movement(それぞれ個人特有の動き)を探る方法を創作過程でとることがある。いわゆる個人の持ち味を生かして振りを付けるやり方だが、振りに踊り手の特性が「はまる」と、文字通り、出演者全てが主人公となり得る。今回の作品で、それをすることは意識していなかったので、フィードバックをもらうことにより、後に客観的に分析することができた。シーンそれぞれの中心を一体どこに持たせてゆくか、が次のクリエーションの鍵になるような気がしている。

質疑応答の内容はどれも貴重であったが、ポジティブな意見だけではなく、敢えて、わかりにくいと感じたシーンや疑問点、気になったところなどの意見もお聞きすることにした。その後の、出演者と主催者とのミーティングの際も、作者やダンサーたちが作品をどう伝えるかの視点も踏まえ、さらにもう一歩突っ込んだ意見交換をすることができた。以下抜粋。

「多様な動きをこなしてゆくための肉体がまだ追いついていっていない」
「非日常的な白塗り的世界に移行するあたりなども、まだ掘り下げきれてなく、中途半端な‘寸止めの状態’になっている」など。

身体創りは、今後一ヶ月近くのブランクを空けての1月のクリエーションでの大きな課題であるが、自分にとっても、作品の流れ、リズムと構成をもう一度俯瞰してから、つめていきたい細かい点がたくさんあるな、と感じた。

創作メモ
長いようであっという間の今回の10日間。
作品のテーマである「夢」や「記憶」、そして日常、非日常の空間とは?を探っていった。
自然にあふれてくる身振りや、不自然に押し出す動きや言葉、そしてその境界線を行き来しながらクリエーションの時間は過ぎていった。

<夢日記>
宿題は夢日記。朝起きてから、利き手でない方の手で夢を描くという課題だった。
個人それぞれにとって、夢日記はリアルな断片であり、 夢と現実を行き来する不思議な旅の記録であったりする。創作過程では、それが、知り合って間もない出演者7人達を知ってゆく手引書になり、彼らの特質や肉体性をひもといてゆく参考書となることもあった。

自分自身でも夢日記をつけることが、夢見の筋トレになった。
潜在意識やいわゆる変性意識に入っていくための「ツボ」探しにもなった。
夢、白昼夢を表現する身体性は様々で、夢遊病的動きのような動きから、キレとスピードのある動き、また、断片的でシュールだったりするものもある。特にクリエーション3、4日あたりでお互いに慣れ始めた時、それぞれの夢や記憶をシェアし、そこから溢れ出た「振り」を踊り手と共有するのはとても楽しい作業だった。 さまざまな動きが勢いよく浮かびあがり、それを掴みとるオモシロさを感じ、私自身もハイになった感じがした。確かに個人の見た夢に「それは間違ってるでしょう!」などとは誰も言わない。夢は果てしなく自由な世界だ。ところが、それをなんとか表現しようと、こじつけ的に形に入れた途端、 その自由なパワーが奪い取られたりもするから不思議だ。

ある種シンプルな私の振り付けでは、リズムと間(ま)を重視するが、カウントでは取らない。それだけに踊り手それぞれが真実の「瞬間」を込めていかないと 妙に陳腐になり、肉体からしみ出てくるはずのマジックが消えてしまう。確か6日を過ぎたあたりに、それが起こった。わたし自身も、振りを表面と段取りで追い始めてしまっていた。やはり、具体的なイメージをカラダに還元するという丁寧な作業や、その作業を可能にする肉体創りをしていかないといけないと感じた一瞬だった。

カラダを割る
さて、笑うという言葉が「割る」という言葉から来た、という説を読んだことがあり、作品作りの過程に取り入れたことが過去何度かあるが、10分以上ただ笑う、そしてまた10分以上ただ泣くというエクササイズを今回も試みてみた。
ただ笑いになり、泣きそのものになってみる。
理由づけしないカラダ、行為そのものになってみる。そしてその笑い、泣きの後に訪れる静けさの中で、そこから消えていった自分の声、 感情、空間や記憶をたどっていく。
「破顔一笑」のみならず「破体一踊」。
カラダを割って破って一踊りするためには、それぞれが自分のカラダの枠を割り、突き抜け、文字通りトランス・フォーム(形の変容)をしてゆくしかない。
自分のカラダに周りにあるワクや境界をかたっぱしから割り、外していくには?
トランスが、個人の恍惚状態や自己陶酔を超えた空間になってゆくには?
そして、今回の30分という短い作品の中で、どうやったら一体それを達成できるのか?

課題はまだまだ続く。

トランス
未解決の問題は多いが、それでもめげず「トランス」に至る境界線を探るための稽古をしてゆく 。
例えば首振りの稽古。これは、ただ首を振るダンスの踊りをしているのではなく、アタマとカラダを分離しないために、その境界に位置する「首」を振りほどいてゆくもの。
夢日記の言葉を一字一字消して読んでゆく稽古も、ただセリフを追っているのではなく、そこにあった記憶が、夢と現実の境界に消えていったら?という試み。
抽象的で個人的、しかも、そこに普遍性を持たせることはそうたやすくはない。
特にこの福岡チーム、16歳から48歳の幅広い年齢層をもつ7人で、それぞれ、日常の学校生活、職場生活との掛け持ちのため、稽古場に来る時間もマチマチである。その7人それぞれの記憶が刻まれた肉体に丁寧に向き合ってゆくには時間は限られてはいる。わたし自身も、まだまだこれから「割り」続けるしかなく、首を振り、言葉を蒸発させ、現実と夢の世界を行き来しながら、ゲラゲラと笑い(割る)しかないのかもしれない。

夢に正解がないように、私の白い昼の夢も、あと数週間、正解をもたないまま、ドリームキャッチャーにひっかかりながら、日常と非日常の間のシュールな空間を行き来するのだろうか?

2017年1月
ゆみ うみうまれ

(付録)

夢のまわりに
日々の営みがあり
日常がある
日常というかたまりの中で
日常的な身振りや日常的な行為を繰り返す
いつもと同じ、と思っているのに
何かがが皮膚として剥がれて行き
日常的なはずの行為がポロリと落ちる
その中に残る肉塊
皮膚の中に残る血塊

ポロリと落ちた身振りや行為たちは
先走りをして
それぞれの空間に消えてゆく
日常の中に残された肉塊は
皮膚の中の記憶を
太古に存在していた記憶を
探り続ける
 
 
 

【福岡Bプログラム】Groundwork

福岡では12月クリエイション期間の半分が終了しました。上演時間には収まりきれない程の沢山のパーツが出来上がっています。ここ数日は出来たパーツにさらに加えたり、削ったり、パーツとパーツを合わせてみたり、また新たに生み出したり。最終的にどんな形になるのかも楽しみですが、今のこの、つくっては壊し、くっつけては離し、の作業にこそ意味があるように思います。

クリエイション前から宿題として取り組んでいた夢日記は、今も続けていて、特に今日は、長い長い夢をみました。その、夢は現実と変わらないくらい感覚を伴っていて、手を洗うときの水の感触、少しざらついた床、どこまでが夢で、どこからが現実なのか、その境の曖昧さに惑わされたり。夢だとわかった瞬間の、ほっとしたような、淋しいような、感覚も、大切に留めておきたいと思ったり。

初めて教わる舞踏の考え方も面白くて、水になったり、煙になったり、笑いそのもの、泣きそのものになったり。空間に溶け合う感覚の、ゾッとするような気持ちと、優しく抱かれているような感覚の二面性を感じたり。

クリエイション6日目に行った、自分の名前を名乗ってから自分を踊りで表現するというworkも、最終的な作品としての形では残らないだろうけれど、私としてはとても大きな発見がありました。
例えば、就職面接でよくある「自分の長所と短所を教えてください。」という質問。私はこの質問はとても残酷な問いだと感じていて。言葉で表現していくことで、だんだん本当の自分とは切り離された架空の人物が作り出されていくようで、この質問をされる度に苦しさを感じていました。でも、自分自身のからだから発せられる動きはとても素直で。飾らない、美化していない、自己嫌悪や美徳としての謙虚さに押し込まれていない本来の姿がそこにあるように、感じて、嬉しくなりました。


ゆみうみうまれさんの発する言葉は、優しく、でも本質に向かっていて、学ぶことが沢山あります。groundworkという言葉にも、本質が含まれているな…と。形だけではなく、基礎となるものを生み出すこと。(英語での表現なので、意味を取り違えてないとよいのですが。)稽古場では、ひとつのworkに40分を費やしたりと、それだけで上演時間を越えてしまうほどなのですが、時間をかけて、みえてくるもの、感じ取れたものを大切にされているようです。私自身の変化にも驚き、戸惑いを繰り返していますし、共演者の方々の40分後の表情の変化、分厚い皮を脱ぎ去ったような、すっきりとした、それでいて芯は確実に研ぎ澄まされたようなからだにも何度も出逢いました。

また、今回美術として武内貴子さん、渡邊瑠璃さんのお二人に関わっていただきます。お二人ともとても興味深く、魅力的な方で、美術面でも二面性を伴った世界観となりそうです。

まだまだ、ここからどう変化していくのか、なにが生まれてくるのか、これからのクリエイションがたのしみでなりません。

文:安藤美由紀(福岡Bプログラム出演)
 
 
 
 

【福岡Bプログラム】「奇妙な世界の住人」福岡にきたる

制作の津田です。

12月15日。
福岡市内で、この冬初めて雪が降った寒い日に、夏真っ盛りのメルボルンから、ゆみ・うみうまれさんが来福。
暖を運んでくれるんじゃなくて、白い初雪を運ぶとは・・・素敵なお土産です。

今回の作品のタイトルは、「白い昼の夢~White Day Dream」。
ゆみさんとは、どんな人なのか・・・、まず・・・名前は「ゆみ・うみうまれ」???

日本人で、オーストラリア在住23年。
世界各国ありとあらゆる場所で、性別、国籍、障害を超えてありとあらゆるジャンルの人を「ダンス」に料理する・・・
まさに「奇妙な世界の住人」。
彼女の踊りは、舞踏であったり、演劇でもあり、キャバレエであり、ポエムであったりする・・・
その圧倒的なビジュアルインパクトにおされて、「踊2」福岡の地にお招きすることとなりました。

8月のWSオーディションで選ばれた地元福岡の出演者は7名。
ゆみさんは、本当に世界各国飛び回っている様子で、今日はアメリカ,来週は東ティモール、え?ワクチンは?あ、今、「香港」。

・・・そんな具合なので、WSオーディション後、ゆみさんと7名は、「宿題」という形で、繋がっていました。

その宿題とは、見た夢を左手で書くという事。

朝起きてすぐ自分が見た夢を書きとめる、しかも左手で・・・。ゆみさんがメルボルンに行った頃にしていた作業で、左手で文字を書くのは、いつも使っていない脳を動かすようで、楽しいけれど、夢ってなかなか見ない。
と、いうか見たことに気づかないんですよね。

出演者も、さっそく始まった稽古の中で、それぞれの日記を披露したり、その日記の内容を、身体で表現したり、、、
結構、初日から汗がたらたらでハードワーク・・・

世界各国の人を振付しているゆみさんは、一体、どんな創作方法でくるのか・・・
原始的かハイテクか。コメディーなのかシュールなのか・・
初日は、出演者7名も様子を伺うような探り探りで緊張はしていたものの、「夢の記憶」という同じ作業の共有が、出演者とゆみさんを早々に繋いでくれた様子でした。
あと、奇妙な世界の住人はチャーミングでもあるのです。

今回、福岡でつくる作品は、メルボルンとマレーシアで発表してきた作品「White Day Dream」シリーズを、日本の福岡のダンサーと
福岡の美術家とチームで作り上げるニッポン版。

メルボルンとマレーシアで作った作品とは、テーマは同じでも、中身は全く違うもの。身体が違えば、土地が違えば、作品は別の物。

ダンサーに題材を与えて、動かして動かして動かして、そこから作っていく。今は、その引き出す作業から、稽古が始まっています。

ゆみさんの稽古を見ていると、あまり「ダンス」という事には触れてなくて、表現を「出せ」としか言っていない気がします。
「笑う」「怒る」「怖い」という単純な、かつ日常的な表現を。 それは、日常でもあり、ダンスでもある。

そのさらけ出された日常を、「奇妙な世界のチャーミングな住人」が拾い集めて、ダンスを料理する。
チーム福岡さらけ出され中・・・