なぜダンスは男女がペアで踊ることを許したのだろう、について。
テキスト:飯名尚人
札幌のコンカリーニョに来ています。いよいよ「踊りに行くぜ!!セカンド」の公演が開始されます。1月10日から。コンカリーニョ代表の斉藤ちずさんのインタビューもしました。その記事はしばしお待ちを。今書いてます。
リハーサルが終わって、今回アシスタントで参加の阿比留さん(セレノグラフィカ)と作品のことを立ち話(正確には座っていたけど)。「報告するぜ!!」初のBプログラム報告。
隅地茉歩さん(セレノグラフィカ)の作品は「Avec アヴェク~とともに」 というタイトルがつけられている。読んで字の如く、様々な男女が登場するこの作品は、今回Bプログラムの演目として制作されているので、出演者たちは地元オーディションによって選ばれクリエイションがなされている。14日間程度の短い期間のクリエイションだそうだが、作品の輪郭なるものが明確で、丁寧な演出が施されている。
「Avec」というタイトルでもある美的構成上のテーマは、とてもダンス的感覚のあるテーマだ思う。と同時に、ダンスのみならず多くの芸術の背景には「Avec」なる関係がある。パートナー、恋人、夫婦、その形式は様々であるが、どれも「Avec」である。「ああ、そうだ、Avecだ」と、シンプルな世界を40分ほどの時間をかけて蓄積していく作品である。
作品解説にはこう書いてある。
なぜダンスは
男女がペアで踊ることを許したのだろう
宗教によっては、いまだ男女の接触を禁じるものもあれば、ダンスを禁じるものもある。しかし少なくとも今の日本では、男女がペアで踊ることに過剰に反応し「なんて、いやらしい!」とは思われないだろう。
ところで、この作品は「アヴェク」であって「アベック」ではない。
カタカナの「アベック」は、なんだかちょっと時代遅れともとれる言葉である。なんというか山城新伍の「チョメチョメ」的な。何の事は無い本来の意味は「with」と同じであるから、日本語特有の「アベック」のニュアンスともちょっと違うが、ここはあえて日本語特有のカタカナ外来語「アベック」という目線でこの作品を観たいと思っている。
札幌での劇場仕込みの中、やしきたかじんが食道がんで亡くなっていた、というニュースがi phoneに飛び込んでくる。夜ホテルに戻りyoutubeでやしきたかじんのライブ映像を見る。タレントという印象が強いから、あまり唄っている姿を観たことのない人も多いのかもしれない。一貫して男と女の土着的通俗的なドラマを唄い、時にやしきたかじんが女言葉で唄う姿や演技は、これはもう「女形」である。この世界観は、「アベック」の世界観であり、ペアルックを目指し、つがいに憧れる歌謡曲であるから、なにしろウェットである。
セレノグラフィカは、隅地さんと阿比留さんの男女ペアでの活動が多い。必然的に作品の基本構図は男女の構図になるであろうが、この2人はカタカナの「アベック」、「ペアルック」的、「チョメチョメ」的アベックではない。男と女が舞台に居ても、やしきたかじんのようにウェットではない。
コンカリーニョで通し稽古を見る。作品冒頭、夫婦漫才かのように登場する10代の男女(というより、男の子・女の子)。このサバサバとした爽やかな未成熟さから、後半に出てくるこの2人のそれぞれのソロの踊りになったときに、どうウェットに変化していくだろうか。そんなことを期待してリハーサルを眺めていた。よく小さな女の子のほんの一瞬の表情が、色気のある横顔だったりすることがある。僕がロリコンなわけではないが、そんな「ほんの瞬間」がダンス作品にもあっていい。楽しそうな音楽でも、情熱的な音楽でも、ダンサーは無表情であることが多い。あるいは、必要以上の演技が多いこともある。そのどちらでもなく「ほんの一瞬の表情」が、作品に残るといいと思う。そんな一瞬を体験したい。その「ほんの一瞬の表情」を、観る側が拾わなければならない。その一瞬を見逃したくないといつも思う。
それにしても、複雑な時代である。これまで当たり前のようだったことが、当たり前ではなくなってきた。だからこそダンスが必要なのではないか、と感じることがよくある。このことは一昨年の「報告するぜ!!」でも書いたかもしれないけれど、しつこく書く。映画監督のタルコフスキーについてである。日野啓三著「タルコフスキーの世界観」という短い文章を以下引用すると、
彼(タルコフスキー)は決してむずかしく作っているのではない。むずかしいことを言おうとしているのでもない。この世界を、率直に、ありのままに、ある意味では実に単純に表現しようとしているのである。 ただこの世界の在り方そのものが、わかりにくいのである。(中略)かつて詩は世界を最もわかり易く表現するものとして尊敬されていたが、いまや詩は最もわかりにくいものとされている。タルコフスキーが我慢ならないのはそのことだ。
そして詩とは「世界感覚」なのだ、と書かれていた。タルコフスキーの映画を学生のころ映画館で観た事があるが、実際は”観ていない”。なぜなら、いつも寝てしまうから。当時の僕は「すげー長回しがカッコイイ」というファッション感覚でしかタルコフスキーを観ていなかったので、そこで描かれている世界が何なのかを理解するに至らなかった。そんなこともあって、デジタルリマスター版の『サクリファイス』をDVDで購入したところ、ブックレットに上記の日野啓三の文章があったのである。文章を読み、ああそういうことだったのか、と納得した。その通りだと思った。日野啓三という人は文化人類学的関心の強い作家である。人はどこから来たのか、世界はいつ出来たのか、世界とは何なのか。
「詩」という言葉を「ダンス」と置き換えてみると良いかもしれない。ダンス作品というものを分かりにくいと思われる方は、ダンスが分かりにくいのではなく、我々を取り巻く世界が分かりにくいのであるということに気づくことが出来る。
「Avec」という作品は、男と女がペアになってそこに居る、というだけの作品なのであって、難しいことではない。そのありのままの世界を描こうとしているのだ。ということになる。
とはいえ「複雑な時代である。」と再び思う。同性婚も、男女が反転した「おなべ・おかま」カップルも居る。アベックというのは男女である、という常識は、この複雑な時代においては非常識となりつつあるだろう。しかしよくよく考えてみれば、「Avec」を「アベック」と翻訳して独特の意味合いを与えたのはその当時の日本の時代性と国民性でもあり、そういう時代を経て、今がある。
さて、、、もう間もなく本番デス。