各開催地レポート
ソケリッサ『日々荒野。』について

文:佐々木治己

2017年3月17日(金)〜19日(日)、東池袋中央公園で、踊りに行くぜ!!ⅡのCプログラムとして、上演された新人Hソケリッサ『日々荒野。』について思ったことを書いて、演出・振付のアオキ裕キさんに応答していただければと提案したところ、快諾していただいたので、最低でも一回の往復をするということで書き出していきたいと思う。まずは、上演を見ながら思ったこと考えたことを書いていこう。


撮影:河原剛

公園には照明が用意され、赤いカーペットが敷かれていた。メインの舞台になりそうなところには、舞台装置のようなものが置いてあった。告知された開演時間よりも早く、パフォーマンスがはじまったように見えた。人々が集まり、通りかかった人も足を止めて、円形に、囲むように人垣が出ていく。カメラを持ち出し、にじり寄って写真を撮る者、スマホで録画するものなどもおり、一人、また一人と開演前に上演を喚起させるようなパフォーマンスによって、公園は舞台へと変わっていった。そして竹をコンクリートの地面に打ち付け、レッドカーペットからソケリッサが登場してくる。上演がはじまった。

この始まり方からしても、非常に巧みに構成されていると思った。椅子が配られて腰掛けるものもいれば、同じように撮影を続けるものもいる。照明に照らされ、一挙手一投足に緊張感がある。そして、舞台装置に一人が乗り、取り囲む人々に見せつけるように回転していく。回転は人力で一人一人が竹を差し込みゆっくりと回していく。最後には、透明な球体をそれぞれが被り、公園の奥へと、背景だった場所へ去っていく。

いい上演だった。と言えるだろう。「良かったね」という声を聞くたびに、私もそう思った、にもかかわらず、上演中から終演後まで、何かすっきりしないものを感じてもいた。この「良さ」はなんだろうか?

ダンスグループ「新人Hソケリッサ!」は2005年から続いているとパンフレットに書いてあった。そんなに長くやっているのかと思いながら、私がすっきりしないと感じたものくらい、何度もいろいろな人から言われているのかもしれないとも思った。そうなると、ただ「いい上演だった」という感想を述べるより、素朴すぎると言われるかもしれない私のすっきりしない感じをどーんと、アオキさんにぶつけてみようと思う。


上演中、そして終演後に思ったのは、「これは観客が試されているんじゃないか?」というものだった。それはどういうことか。「なぜ、リハビリ、社会復帰に見てしまうのか」、乱暴に言ってしまうとそういうことだった。『日々荒野。』という作品に、そういったホームレス状況からの社会復帰というものがあるというのでも、ソケリッサの活動がそうだというものでもない。見るものの中にそういった「ホームレス」という枠があるのであり、その枠をつけたまま見ていると、そこにある動きや関係も、「ホームレス」という認識の枠からしか見ることができなくなる。では、「ホームレス」という枠とは何か。通常の社会生活が送ることができなくなった者、破綻した者、つまりは社会からドロップアウトした者としてホームレス状況の人を見るのであって、そして見ているものの大半は、「ホームレス」ではないために、ホームレス状況の人個々が抱えている個別性は考えず、「ホームレス」という枠で見てしまう。ホームレスは、すべて「ホームレス」なのである。そして、そういった枠で見つつも、それぞれの個をあらわにするものがパフォーマンスだとしたら、その個なるものを私たちは見ているのか。

『日々荒野。』の中で、アオキさん以外に二人のパフォーマーが目立つ。彼らはそれぞれに魅せる動きをする。特に、舞台装置の上に立つパフォーマーは、雰囲気もあり、見ているものを惹きつける。しかし、そういった惹きつけるものですら、パフォーマーの個を見るというよりも、「ホームレス」という枠を持って見てしまう。これはもちろん、見る者の貧しさ、偏見と言ってしまえばそれまでだろう。私がこのような偏見とも見られることを書いているのは、このような偏見的な視線を受けながらも、ソケリッサは10年以上も上演を続けているということにとても興味があるからでもある。

舞台の構成もそうだが、舞台上で行われるコミュニケーションも、普通のコミュニケーションだった。普通とは何かと言われると困ってしまうのだけれども、ある行為があり、それに応答する。または、相手にとって応答しやすい、行為をするというコミュニケーションという意味で普通を考えているが、『日々荒野。』はとても見やすい作品だった。そして作品内で有機的に繋がっていくパフォーマー達の関係は、淀みなく、停滞も遅延も、破綻もすることもなく、粛々と進んでいく。見せ場もあり、美しくもあった。そのため、私は違和感を感じた。ホームレスの人がコミュニケーションを覚え、作品を作っているというように、なぜ、私は見てしまったのだろうか。ここに私がこだわるのも偏見かもしれなが、というのも、私も3年ほどとソケリッサの10年には遠く及ばないが、ホームレス状況の人たちと関係をした時期があったからなのである。私の場合は、困っているホームレス状況の人を手助けしたいという気持ちで関わるようになった部分が多くある。そして、少なくはないホームレス状況の人たちから、手助けを拒絶されたことがある。私のやり方が悪かったのかもしれない。しかし、そのとき、衝撃を受けたのが、その拒絶は、「お前らの制度に入れようとするな」というようなものだったからだ。この制度というものは、もちろん行政的な制度でもあるが、可哀想などと思うような感情、頑張れなどと思う望み、それらを含めて「制度」というものであり、ホームレス状況の人を救おうとする行為や、社会復帰を望もうとすること自体が、彼らの選択や、意思を踏みにじることになってしまうということだ。私たちの視線や、感情には、すでにそういった「制度」がある。とはいえ、ホームレス状況の人に対する社会的な救済措置、支援に反対しているというのではない。拒絶をされても試み続け、そして、そういった活動をしている人たちを尊敬し続けている。

しかし、アオキさんに聞きたい。この制度への拒絶が無化されてしまうことについて、どう思っているのかと。見ながら安心していく上演、いい上演と言える上演、「制度」に安穏としつつも後ろめたさを抱えている者たちが安堵し、感動していく上演に、アオキさんは、そして新人Hソケリッサのメンバーたちはどう思っているのかと。

と、ここまで書いて、アオキさんにメールで送信して、返答を待つことにした。すると、アオキさんから返信があり、会って話そうということになった。数日後、新宿アルタ前でアオキさんと待ち合わせをした。

「制度」への拒絶

佐々木 突然、私にとっての核心部分からお聞きしたいのですが、ホームレス状況の人、路上生活者が持つ「制度」への拒絶という視点についてはどのよう にお考えですか?

アオキ 「制度」への拒絶というものは感じますが、そこを前提にしてしまうと活動ができなくなります。制度、制約から自由になりたい、逃れたいという願望を 多くの人が持ちますが、作品を作る上では、制約のようなものが必要になってきます。

佐々木 そういった制約に対してはどのような反応があるんですか?

アオキ 作品化する上での通例的な踊ることなどのタイミング、キッカケなどは、ありのままの姿というわけにはいかないんですよね。そこで「制約」として覚えてもらうんですけど、結局、技術など訓練を積んだダンサーではないので、なかなか覚えられない、間違える、ということになります。そのため、そういったタイミングやキッカケという「制約」はなくしていくことにしました。

佐々木 覚えられない、間違える、というのも拒絶の一種かもしれませんね。

アオキ ええ、しかし、何もなくなると何も作れなくなるので、一つだけ「制約」を残したんです。それが言葉を提供してそこから個々で生み出す「振付」という制約になります。言葉を渡してそのイメージから動いてもらい、その人の動きの特徴や僕がもっと見たいものなどから発展させていきます。本人が生み出したものは振付として作っても、日々の身体感覚によって変わって馴染んでいくんです。

佐々木 どのようなことをその人の特徴だと思うんですか?

アオキ 外面的なことであれば歩き方であったり、歯が抜けていたり、シワ、指、骨格、動かし方などの特徴ですね。

正常の体と特徴的な体


佐々木 主に身体的な特徴だと思いますが、ソケリッサを見る人は、まず、ホームレス経験の体と、アオキさんというダンサーの体の違いということに着目すると思うんですね。私としては、それは見る前から分かっていることを、確認するような見方で、どうにも見世物を見るときに起こる期待感というのか、そういうものを感じてしまう比較だと思うので、できるだけ避けているんですけど。

アオキ ホームレス経験の体とダンサーの体の違いという視点で見てもらってもいいんです。見世物的に見てもらっても構わないと思っています。また、身体的特徴だけではなく、発展していくときに、イメージを渡すことで、記憶やトラウマというものが出てきたりもするんですね。

佐々木 もう少し、体のことを話したいのですが、身体的な特徴というのは、例えば、歩くにしても足を怪我していると普段とは違った歩き方になりますよね。私自身、ホームレス状況の人と関わっていて思ったのが、その方々は怪我したままなんです。病院には行けないし、行けるように手配しても拒絶する人がいました。そうすると、怪我をした状態が普通になっていく。私たちのように怪我をしたからといって治療しないんです。

アオキ そうですね。それが特徴にもなってきますね。

佐々木 これは逆説的ですけど、いわゆる普通の体というのは、治療を受けている体であって、いろいろと手の入った体なんですよね。そうなると、怪我をしたままの体や、路上生活で日差しや風雨にさらされ続けてシワが深く刻まれる、つまり、皮膚が保護、治療されない体や、虫歯などで抜けた歯などは、その人がどこで何をしてきたのかを示す体であり、そういう意味では、そういった体の方が普通のような、そして、それこそが特徴になってきていると考えられますね。

アオキ ええ、そうすると、同じ振付をしても変わってくるんですよね。

佐々木 ダンサーの体と言っても一口には言えないと思いますが、ある動きをこなすためには、怪我したままというわけにはいかないですし、整った体であることが求められますから、同じ振付がおじさんたちのような特徴によって変化していくということは少ないんでしょうね。

アオキ 怪我したら病院に行って治しますからね。

佐々木 考えてみると、医療制度の中で、体は正常な体であることが求められているでしょうね。

アオキ そうなんでしょうね。だから、振付が変化していくのがとても面白いんですよ。そして日々、変化していく。体以外にも、例えば、僕が「青い空の下」という言葉を渡したんですね。そうすると、しゃがみこんだおじさんがいました。僕としては、両手を広げて空を仰ぐようなことをイメージしていたんですけどね。

佐々木 それが、記憶やトラウマによる変化ということなんでしょうか。

アオキ ええ、こういうことをしてみようとやってみても、身体的特徴や、記憶、トラウマなどから、違うことになっていくんです。僕自身も真似したりして、お互いに見せ合うこともあったりすることで、自分が何をしているのかを認識していったりします。それは身体の会話かもしれません。

佐々木 アオキさんが動きを真似するというのは、今回見ていても思いました。そのとき、アオキさんを通しておじさんたちを見ようする気持ちが起こりましたね。

アオキ 僕を通して見てくれてもいいんです。僕は、作品の中では、案内人のようにキッカケを決めているだけです。僕の後に付いてきて、とキッカケを出しても付いてくるときもあれば、付いてこないときもある。僕は役割として、揺さぶる。動いているものが止まったりすると、慣れた動きが麻痺していく。これをしているだけなんです。

撮影:河原剛

うまくいかないのを見せる

佐々木 今回の『日々荒野。』は、完成度も高く、振付以外の構成もわりとされていたような気がしますが、今回は特別ですか?

アオキ たまたま上手くいっただけです。僕自身は、今回のように恵まれた環境で作品を作れなかったので発見が多く有りました。いろいろな人たちと一緒に作っていく上で、こういうやり方もありなんだと思いました。ただ、基本的にソケリッサは、うまくいかないのを見せるというのがあります。うまくいきませんよ。稽古に来なくなっちゃうことこともありますし、今の形になるまでに10年かかりました。

佐々木 うまくいかないのを見せる、という言葉に魅力を感じてしまいます。

アオキ 僕自身に決めていることがあるんですけど、それは、「理想を決めない」「ある方向にもっていかない」「不安の中にいる」ということです。これらは舞台作品を作るときには、理想や方向を決めて作りたくなるんですけど、当初そういう作り方をしてしまったら、おじさんたちの動きは死んで関係もギクシャクしました。

佐々木 そうでしょうね。そういう社会が持つ「理想」なり「方向」なりの制度にいないことを無意識にも身体で示している存在かもしれません。しかし、舞台は制度だらけと言いますか、いろいろな制約の中で行うものですよね。そして今回も、おじさんたちは参加されていた。それはアオキさんがおじさんたちを制度、制約を超えて巻き込んでいるからだと思うのですが、最初はどうやって誘ったんですか?

まず自分が見せる


アオキ 最初、一緒にやりませんか、と声をかけていったんですけど、誰からも見向きされなかったんです。なので、言葉でなくまず自分が見せるしかないと、おじさんたちの前で最終は踊って、伝えることができました。1年かかりました。

佐々木 1年間!

アオキ ダンサーという仕事をしている僕は言葉じゃなく、踊りで伝える事の重要性を強く確認しました。まだ踊りを信頼しきれてなかった。踊りをもっともっと信頼しなくてはならないと思います。

「制度」と「踊り」

佐々木 踊りって自由の代名詞的なものでもありながら、制度とも考えられますが、アオキさんはどう考えていますか?

アオキ ええ、一般的な定義での踊りは、過去の踊りを模して、違うものにして、そして受け継いでいく、そのことを考えれば、全く制度です。踊りを見せるのも、僕はこのような制度で楽しんでいます、と見せているのかもしれませんが、コンテンポラリーダンスを考えるとき、踊りという制度の過去から今までの終わりを考えさせられるんです。何もない、何もないという不安の中にいるもの、それがコンテンポラリーダンスなんだと思いますね。

佐々木 全く同意見です。そして、アオキさんが、おじさんたちに、そういった体の制度を内包している踊りを伝えたというのがとても興味深いのです。アオキさんと踊っていく中で、おじさんたちは違う制度と出会うわけですよね。そしておじさんたちに振付をすることで、踊りという制度がさまざまな形になっていく。制度が崩壊してくのか、補完されていくのか分かりませんが、治療されたり、訓練された者でない人々を踊りという制度に組み入れたときに何が起こるのか。

アオキ それが、うまくいかないことを見せる、ということなんです。コンテンポラリーダンスは、言い方を変えると、決めない踊りです。しかし、実際には、作品を作る上で、決めていかないとできないということから、決めてしまう。そこには、もしかしたら、決めたいという欲求がどうしようもなくあるのかもしれない。そのとき、おじさんたちは、そういった決めていく制度に捨てられます。

撮影:千田優太

観客の欲求

佐々木 決めたいという欲求は、何も作り手側にだけあるのではないと思います。ビシッと決まったものや、訓練されたもの、精緻なものなどを見たいという観客の欲求がある中で、その欲求に応えるために決めないといけないと思っているのかもしれない。また、ソケリッサのようなものには、違う観客の欲求が起こると思うんです。それは、ホームレス状況の身体を見たい、捨てられたものを見たいとか、ちょっと失礼な言い方になってしまうと思うんですが、そういう見世物的なものを見たいという欲求もあると思うんです。

アオキ ええ、僕は喜んでくれればなんでもいいと思っています。おじさんたちの不器用さや、エラーのようなものを見て、見世物的に喜んでくれて問題ないんです。もちろん踊ることでおじさんたちの未来に何があるかわかりません。僕は大きな責任を背負っているということは、日々忘れてはならないと思っています。でも必ず喜びこそが人間を動かす。(隣の席で、小銭が落ちた音がすると、凝視する)あと、もっとお金をくれ、とも思っています。

佐々木 活動する資金のことですか?

アオキ もちろん活動資金もですが、舞台をやったあとの投げ銭や寄付金ですね。寄付金や投げ銭だと、公平にギャラとして支払えるんです。

佐々木 ちょっと考えていなかったんですが、確かに、謝金が支払われるには、口座はもとより、マイナンバーが必要だったりしますし、代理で行うと、自分の収入が増えてしまうことになりますしね。継続した活動をしていくには、切実な問題かもしれません。そうなると、どう見られようが構わないが、感動したり、拍手をしたり、写真をとるなら、金を払ってくれ、ってのは、もうこうなったら、のぼりでも立てて「金をくれ」とやってもいいくらいですね。それはそれで問題になってしまうかもしれませんが。

どう見られようが構わない

佐々木 当初、ホームレスの人が持つ「制度」への拒絶をどう考えるのか、という問いをメインにするつもりでした。それは、一つには、ソケリッサの作品自体が、ホームレスという存在から搾取しているんじゃないか、という側面もあるということを考えていきたいと思っていたからなんですが、アオキさんの大きな袋のような考えを聞いていると、搾取と見られるならそれでも構わない、社会復帰へのサポートだと見られるのであればそれでも構わない、という開き直りと言っては失礼ですが、私の小賢しい指摘なども飲み込むようなものを感じました。

アオキ 開き直りかもしれませんが、そういったことは考えなくなったわけではないんです。しかし、もう踊ってしまっている。その中から社会へと向かってしまっている。目的を定めない在り方、生き方ができているおじさんたちがいて、その人たちが何かを見せようとしている。これだけで十分なんじゃないかとも思うんです。ソケリッサが何に利用されても構わないんです。

佐々木 そうですね。見世物的に見られても、または、社会復帰が望ましいと考える世の中ですから、おじさんたちが社会復帰に一歩近づいているというふうに感動して見ている人もいるとも思いますが、そこにはアオキさんが見出したような、おじさんたちの身体的特徴などがあるわけですよね。その体を見ると、私たちが持っている「快適な体」の方に何か問題があるような気がしてくるんですよね。この体こそが制度なんだ、という気が。

アオキ 佐々木さんみたいに感じる人もいて、ただ面白がる人もいて、でも、一番、見て欲しいのは、他の路上生活者に見て欲しい。今回、踊りに行くぜ!!に参加して感謝しているのは、他のダンサーたちと同列にソケリッサを置いてくれたことなんです。

撮影:河原剛

ソケリッサの作り方

佐々木 これからソケリッサはどういうふうになっていきますかね?

アオキ どうなっていくと思います?

佐々木 演劇などでも社会福祉的な役割を担っていくものがありますから、そういった社会運動的な活動が増えてくるんじゃないですか?

アオキ この間、リオでストリート・ワイズ・オペラの方たちと出会ったんです。ホームレスの方達とオペラ劇を作る団体ですね。で、世界各国アートとホームレスの方達と活動している団体とでネットワークを作っていこうという話が出ていまして、今度は東京で活動することになっているんです。

佐々木 国際的なネットワークも大事になってきますよね。

アオキ でも、日本でこういうことをやっているのはまだ少なく、釜ヶ崎芸術大学はアート全般で活動、ダンスはソケリッサだけなんですよ。路上生活の体に興味を持った方などいろいろ芸術活動が増えて欲しいと思っています。

佐々木 ソケリッサの作り方のようなものを配布したりして、あちこちでソケリッサができるような感じですか。

アオキ それぞれやりたいようにやっていただいて欲しいです。手伝いに来てくれる方はいるんですけど、別にやろうって人は今のところいないんですよね。

佐々木 もし、ソケリッサの作り方のようなものを作成するとしたら、おじさんたちと触れ合うための注意事項じゃないけれども、こういうルールでやってるというのが必要になると思いますが、何かありますか?

アオキ 僕の場合はまず、私生活に触れない。

佐々木 なるほど! これはいきなり大事なところですね。

アオキ 直接的に私生活に関与しても、何もできないだけなんです。この10年で知り合ったおじさんたちを思い出すだけでも、泣けてくるような人たちがいました。

佐々木 ソケリッサ図鑑のようなものがあったら売れるかもしれませんね。他はどんなことがありますか?

アオキ もちろん、対等に付き合う、というのは大事です。そして対等さとは、僕に出来るのは踊りが全て、ということなんです。また、過去は問わない。もし法を犯した過去があっても関係ありませんし、一般的な善人が踊る必要もないわけですからね。

佐々木 これはソケリッサ以外にも、芸術団体の多くに当てはまりそうな注意事項のような気もします。アオキさんのように1年間おじさんたちの前で踊り続けるのは難しいと思いますが、ソケリッサの先例があるわけですから、やってみたいと思うホームレスの方も多く出てくるかもしれませんね。

アオキ 目的を定めないというのは活動としても難しいかもしれませんが、それがソケリッサをやる中でも大事なことだと思っています。

佐々木 先ほど、東京でという話が出ましたが、リオのあと東京ということで、つまりは、オリンピックのときに何かをするということですか?

アオキ 東京オリンピックですね。

佐々木 よく、ジェントリフィケーションなんて言われますが、単に、汚いものを排除して、綺麗にしていくことだと思うんですが、ソケリッサが一部には、ホームレスの社会復帰のモデルとして、社会福祉的な面もあると思うのですが、もう一つには「俺たちはここに生きてるぞ!」という声を上げる活動にも見えるわけです。東京オリンピックのときに、排除されずに、様々な公園などで、数多くのソケリッサの舞台が上演されると面白いですね。

アオキ そうですね。一つのソケリッサだけでは足りないんです。

佐々木 今日はありがとうございました。ソケリッサを見ながら感じた疑問が氷解していくような気持ちでした。

アオキ あとで、釈然としなかった、と書いても恨みませんから(笑)

ということで、アオキさんとの対話を終えた。これは対話を録音して書き起こしているように思えるかもしれませんが、アオキさんと話した印象の方を大事にしたいと思ったので、当日のメモを頼りに思い出しながら書いたものです。「制度」の拒絶、という問題についても、アオキさんは開き直っていたわけではない。ただ、ソケリッサの活動を通じて、そういったことも一つ一つ受け止めていこうとしているのだろう。「制度」というのを広げて考えていくと、自分以外のことを知るということにもなるのではないだろうか。自分が属している制度から見る世界に、他の人が属する制度を入れてみる。自分が二つになるわけではなく、世界の見方が二つになる。これが誰かに会うということなのかもしれないし、「踊る」意味なのかもしれない。

撮影:河原剛