【稽古レポート】 2017年1月20日 / 川畑 えみり
色んな景色を見てきた気がしている。
12月のワークインプログレスではぎゅっとした気持ちで、狭い範囲しか見えず、一緒に踊るメンバーはおろか自分がどう作品にいるのか迷子だった。
前半のクリエイションが終わり、本番までに100回通すという予定を立て、各自の稽古。
1人で稽古。音をかけるのが困難。
無音でやる日もあり、自分の時間が見えてきた。
何だかここはこんな感じがする。あれ?でも今日はここが居やすい。ここの振りいいな。この場所からはこう見えるのか。日がまぶしいな。床に傷がついている・・・
場所も変われば、その日その日の体も違い発見することがたくさんある。
あ、あの車はゆーこさんだ!勝手に『お待たせ~』と言って近寄る。何だかウキウキした。
誰かと稽古。また景色が変わる。空気が変わる。面白い。
年が明けて、みんなでの稽古。各自の稽古で思ったこと、作品に対して思ったこと、他愛もないこと。色んなことを話した。
ソロでリレー方式で作品を進めてみる。今まで1人の稽古で自分が持っていたピース時間を他のメンバーが進める。
一緒に同じ時間を過ごす。味わう。シーンを進める。
今までに1人では見えなかったこと、12月のクリエイションでは感じることが難しかったメンバーの気配を強く感じる。
体と体で会話しているようだった。
個々の体が浮き出てきた気がしている。
1人じゃ見れない5人で作る景色はどこへ向かっていくのか。
とことん踊って、黒鶏の世界に飛んでいこう。
【稽古場レポート】20170119 / 磯島未来
久しぶりにダンサーとして、しかも自分以外の振付家の作品の中で踊る。
この数年怠けて蓄積してきた身体のいろんな部分が悲鳴を上げて驚いていた12月前半の稽古。
台風のようにうわーっと来てうわーっと去って行ったしげやん、そのあと待っていたのは自分たちの稽古の日々。
しかし、100回通すっていったいなんだ。
あれこれ言ってもしょうがないのでひとまずやっていってみる。
1回、2回、3回、、、、年はいつの間にか明けて2017年明けましておめでとう。
しかし順を追っている通しに単調さを覚える。
これはもはや運動じゃないか。と自分に訴える。
運動ではなくダンスがここにあるべきだ。とも。
自分たちが踊るために、なにが必要なのかとあれこれ試してみる。
そして見つけてきたのが「ソロリレー方式」だった。
これはとても私たちを鍛えてくれる。いつだって場がひりひりしている。
とてつもない緊張感の中でどうダンスを起こす。いつ起こす。いつやめる。
やり取りが生まれた。ずっと同じ場所で踊っているときより相手が分かる。
もちろんうまくいったように思うときもあれば、これはないな、という大きな失敗もあった。
そこに第三者が居なくても私たちは黙々と稽古して共通の言葉を増やしていった。
その時間を持てたことは一緒に踊る者としてとても貴重で、作品の財産だと思う。
ああ、やっと踊りはじめた・・・。と思いつつ、この作品の行き着く先はどこなのかと目を細める。どこに行きたいのか。
ゴールなんてなくてもいいんじゃないかと誰かが囁く。どこかの鳥かな。
アップでやった10円取りの運動で膝を強打した、地味に痛い。
[稽古レポート]
1月19日(木)
ワークインプログレスが終わってから、会話が増えた。
年末年始は黙々と一人練習。
1人でやると自分の身体の動きに集中できる。
自分自身の身体はどうやっても見えないから
なんかいいなと思う感覚を信じてとにかくやる。
黒鶏の振付を通して、自分の身体と話をする。
稽古の帰りはいつもえみりさんの車に乗せてもらい、
えみりさんと稽古どう?とか作品どうなるかな?とか
うどん食べたいとかお風呂行きたいとか星野源がかわいいとか話す。
年明けダンサーだけで稽古を重ねるごとに
ダンサー同士がチームになってきてると感じる。
どうでもいいことを言い合って笑い合う。
何も言わなくても身体で通じ合える。
先週は磯島家で新年会。お鍋を囲んで相撲をみる。
おわーーーーー!白鵬が負けて全員声を上げる。
相撲はそんなに興味無いけど一対一でぶつかり合う身体はおもしろい。
なぜ黒鶏に参加したのか、ダンサーとしてすべきことはなにか、いろんなことを話す。
昨日からしげやんがきてクリエイション後半戦がスタート。
クリエイション前半戦や自主練のことを話す。
12月の時よりも会話が増えてる気がする。
人と話すことは楽しい。話さないとわからないことはたくさんある。
真剣な話もどうでもいいような話も
「黒鶏」の一部分になる。
100回通しは身体との会話。
もっともっと楽しもうと思う。
(文・小野詩織/仙台Bプログラム出演者)
「黒鶏~kokkei~」演出:北村成美
~本日の黒鶏~
寒い稽古場。
体を温めるのに“10円”というゲームをやる。
全員で右手の甲に10円を乗せ
左手で誰かの10円を落としにいく。
落とされないように
自爆しないように
姿勢を低くし睨み合い
狙いながら逃げる
逃げながら狙う
そして一瞬の隙をつく。
これもまた作品の稽古になるなと気づく。
・・・・・・・・・・・・
通し稽古。
あえて、作品のサイズをたっぷりと引き伸ばしての通し稽古。
流れる時間・空間を共有しながら、しげやんからいただいた振付けをそれぞれ動きが生まれる瞬間を味わい、生まれないことも味わう、動きに疑問を持つ。
自分だけの感覚ではなく、誰かの疑問にも興味をもって一緒に向き合ってみる。
“待ち合わせ場所”を設けて、そこに辿り着くまでは体の行きたいところに行ってみる。
行きたかったのに行けなかった時の感触も受け止める。
作品を様々な側面から覗き込むことで、また違った黒鶏の景色と体に出会い、寄り道して見てきた景色の感覚を体に携えて、体の中に奥行きを作っていく。
1人での稽古では掴めない感触をみんなと踊ることでまた違った感触をいただくことのありがたさ、と共有することの難しさ。
それぞれの体とそれぞれの感覚を持ち合わせてひとつの黒鶏に向かって、私たち5人でまだまだ探ってみたいと思います。
(文:渋谷裕子 仙台Bプログラム出演)
北村成美作品「黒鶏-kokkei-」のレジデンス・クリエイション前半戦が終わった。
12月3日から13日までの10日間、それが1か月くらいに感じられるほど、濃い時間に感じた。
午前中から夜まで抜き稽古。基礎練習。全体稽古。
ダンサーにとっては、踊ることだけを考えて過ごせる幸せな時間だったかもしれない。
ごくフツーの人が見たら、それは奇妙で狂った時間に見えたかもしれない。
これも誰かにとっての日常が、誰かにとっては非日常に見える景色か。
日々の基礎練習のなかに、北村成美の哲学があるなと感じた。
きっと何回も何百回も多くの土地で踊り続け、伝えて、整理されて、足したり引いたりして、
そうして今、ここに北村成美の精神に触れる基礎練習ができてきたのだろうな、と想像してみたりする。
これを、時間になると北村さんと出演者たちは、やる。黙々と動く。
それがとても美しい、と感じる。
相手のカラダのなかに自分をおく。
眼でみるのではなくて肌で感じる。
私たちも動物。だから、その感覚はあるはず。
相手に合わせるばかりではなく、自らも発信する。
そんな話をしていたのが印象的。
そう、私たちも動物。
今夏で終わってしまったのだが、今回の作品制作の稽古場にもなっているせんだい演劇工房10-BOXで
「10-BOX夏の学校」という企画が10年ほど続いていた。
ムーブメントと、造形の授業があって、日々混乱。けれど、とてもおもしろかった。
http://www.gekito.jp/?pg=1435667075
毎回お題や課題がでる。意味がよくわからない。それでも「まずやってみる」。
よく観る。講評を聞く。(ふうん。へえ。そっか!)
じゃあ、次の人。って、いうくり返しが続く授業だった。
そのわからなさを感覚で捉えていく、みたいなのが好きだった。
全然まとまらない。
わからないってこと言いたい訳わけじゃないんです。
なにか得体のしれないモノが立ちあがろうとしているような感覚があって、それが何なのかわからず、
モヤモヤしていて、うまく書けないのです。
でも、稽古を見ていると浮かぶことばとか思うことがあります。
そのひとつ。北村さんがクリエイションのときに出演者に話しているのを聞いていたら、ある本のことを思いだしました。
たぶん、北村さんから発せられたいくつかのことばが、私のなかでこの本と繋がったんだと思う。
2012年5月に読んだときに抜き書きしたものですが、ここに載せておこうと思います。
『富良野自然塾・倉本聰対談集 愚者の質問』倉本聰/(日本経済新聞出版社)より
◎愚者の質問②自然体験が育てる子どもたちの脳と心/賢者:澤口俊之(脳科学者)
澤口:同じように考えているとき、同じ脳領域を使っていることがわかっています。でも、今言ったのは、脳の研究での「共感」で、それは社会的な共感ということで、「同情」っていう感じのニュアンスですよね。相手が泣いているときに共感するっていうような。ですから劇を見ているときの共感というのは、今のところちょっと調べられていないと思います。
澤口:特に赤ん坊の場合は、言葉はほとんど意味をなさないので、実際「体験」することによって覚えていくしかないんですよ。何が苦いかとか、甘いとか。・・・・・本当に危ないものに関してだけは、教えた方がいいんですけど、先ず自分で体験することっていうことは、メッチャ重要なんですよ。
◎愚者の質問④地球の天辺(エベレスト)から見た地球の明日/賢者:三浦雄一郎(冒険家)
三浦:まぁ、後は死ねばいいだけですから。
林原:死ねばいい・・・・・。
三浦:うん。人間どっかで一回は死ぬ。一回は必ず死ぬ訳ですから、自分で「これは!」と思ったものに向かっていって!それで死んでも、エベレストを墓と思ったら、こんな贅沢な墓は世界にないと。地球にないと。
倉本:(大笑)
林原:そうすると、自分では目一杯やってると思っている人が多いんですけど、まだまだなんですよね。
倉本:そうなんだろうねぇー。やっぱり目一杯やってないんだろうねー。僕、あの、頂上に着かれた時の、長男の方と無線で話してる、あのセリフがとっても好きだったんですけど。
三浦:・・・涙が出るほど、辛くて、厳しくて・・・嬉しい。
◎愚者の質問⑥ナマコ的な天国の作り方/賢者:本川達雄(生物学者)
本川:だから、この世の中で生きる時に、実は「時間」っていうのも万物共通の時間が流れていると言ったって、その時間の中で、どういう風に生きていく戦略を取るか、速い戦略を取るのか、ゆっくりな戦略を取るのか、そういう色んな時間の生き物がいる、と見ていいだろうと思うんですよ。だから、「草の時間」と「木の時間」は違う。で、「ゾウの時間」と「ネズミの時間」は違う。
本川:でも、心臓の拍動なんていうのは、縄文人と変わっているはずがなくて、同じペースで打ってるんですよ。そうすると、体の時間は昔のままだけれども、周りの時間ばっかり、どんどんどんんどんどんどん速くなっているのが、現代ではないかと。で、やっぱり、そんな速いものに体が追っついていかないで、体のほうが悲鳴を上げてるってところがあるんじゃないかと。
本川:だから、もうちょっと幸せに暮らすためには、不便になったほうがいい。そういう価値観をもったほうがいいんではないかと。
本川:でも、生物っていうのは、子どもを作ってナンボっていうのが生物なんですよ。子どもを作らなければ、生存する価値はゼロなんです。で、先ほど、回りながらずーっと続いていくのが生物だって申し上げましたけど、つまり「こども」は「私」なんですね。だから、そうしてずっと交代しながら、私、私、私って続いていくのが生物なんです。だから、そういう風に言えば、子どもを作らないっていうのは、一種の自殺なんです。
(からだとメディア研究室:千葉里佳)