03.10
内田敦子の場合
「内田さんを雇いたい」、そう言われた。
菅原は長年来の友人である。元々は私の部下であった。
世界のVIPやハリウッドスター、富裕層を相手にしたホテルで、菅原はすっぴんで働いていた。
何度も、頼むから綺麗に化粧をしてくれ、と懇願したが、言うことをきかなかった。
スタイルはいいのに、髪も眉もボサボサだった。
動きだけはバレエダンサーのように美しかった。
菅原は、数年前に私が結成した、『一人っ子の会』の一員である。
会員は4名。増えた試しがない。
閉鎖的なのである。
たまにゲストの参加が認められるが、ゲストは一人っ子でなくても構わない。
菅原はAB、私はA型、他の2人はBとOである。
つまり、てんでばらばらであり、故に、バランスがとれている。
一人っ子は、寂しがり屋である。
そのくせ、一人、膝小僧を抱える時間がないと窒息死してしまう。
もちろん、我が・ままである。
でも、自分では全くそうは思っていない。
菅原とMessyについて最初に話をしたのは
あれは確か、カンボジアの宿だったか。
異例の大洪水で、なす術もなく、
途方に暮れていた私を菅原が訪ねてきた。
菅原が滞在した5日間は不思議と雨が止み、美しい夕日にさえありつけた。
ああこの娘はアポロンをしょってるな、と感じたものである。
100年前の遺跡の上で踊ったり、
トゥクトゥクに揺られながら、黙々と働く痩せた灰色の牛を眺めたり、
50セントのビアを飲みながら、三線を弾き、
2人でとりとめのない話をした。
自分の中の衝動について話していたとき、
菅原は、裸になりたい、といい
私は、飛び降りたい、と応えた。
日本という国には、しばらく戻るつもりはなかったので、
彼女の初作品の手伝いができないことを残念に思い、
体だけは大事にしなさいね、と抱擁をして別れた 。
私が帰国したのはその二日後である。
かくして私は、友人に雇われることとなったのである。
つづく
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