ドラムのスガタです。

気がつけば、仙台公演、福岡公演と終了。

「ドラムだけで、ダンス作品に関与する。」

ダンスという領域に対して、全くの門外漢が、
何の因果か関わった「踊りに行くぜ!!」は、
脳が触発される場になっている。

新しい発見や驚きが、山盛り。

菅原チームの面々や、各公演で共演した他チームと、
前日のゲネやリハの合間や本番前、また打ち上げの席などで、
酔っぱらいながら(もちろん酔っぱらっているのは、

打ち上げの時だけだが。)も、
様々な言葉を交わして行くうちに、
音楽とは異なる領域の視点に刺激される。

そのおかげで、
脳がオーバーフローをおこしてしまった。

刺激を受けた頭の回転は、目まぐるしい勢いで加速し、
浮かんでは消え、消えては浮かぶ幾つもの考えに翻弄されながら、
ようやくある結論にたどり着きそうになって、
その尻尾を捉えたと思った途端、
その結論は瞬く間に消え去り、と同時に、また別の視点に惑わされ、
気がつけば五里霧中。といった有様だ。

「考えが、まとまらない」

思考の上に思考を投げつける。

なんだ、これでは、
まるで頭の中がmessyじゃないか。。。。

作品が現実を浸食し、僕の意識を脅かす。

と、書きながら、現在の自分の部屋を見渡すと、、、、、、、

「・・・・・き、、、、き、、、きたない。。。。。」

なんだ、実際の自分の部屋もmessyじゃないか。。。。

しばし、沈黙。。。。。。

そして、、

また沈黙。。。。。

。。。。。。。

「あぁ、こういうことか」

と、ある思いがよぎる。

卵が先か、ニワトリが先か。
そんな議論はさておき、

こんな状況から、
僕が「messy」という作品とリンクした、
あまりにも短絡的だが、近すぎて見えなかった、
ある意味を見いだす。

というか、

こうして関わった運命に、
改めて意味を付与する。

「意味を付与する。」

作品を制作する過程で
「これは、どういう意味か?」と、問われる。

音楽の場合、
特に即興音楽の場合は、
即時性が求められるため、
その場では、それぞれの音の意味は考えない。
(ってか、そんなヒマがない。考えられない。)

演奏後、プレイバックを聴きながら、
考える場合もあるが、

基本的に、瞬間的に、その場で反応し判断し直観で応える。

極端な話、脳を介在しないで、耳から腕へ。自動的に。

ただ、「踊りに行くぜ」は、作品制作の場だ。
作家性が問われている。

人を惹き付ける動きが、
たとえそれが、
閃きや、思いつきであったとしても、
そこには、意図が求められる。

だから、作品全体を、ある場面を、
ある動きを、ある言葉を、
そして、その裏にある意識を、

微分し、意味を付与し、積分する。

そこから、こぼれ落ちたモノやコトがあるなら、
強引にでも、それらを、またひっくるめて、
再度、微分し、意味を付与し、積分する。

その繰り返し。

そうやって、意図が細部に浸透していくように、
感覚を言語化し、対象に意味を還元しながら、
作品をより強靭なものにするために鍛えていく。

って、

言葉で、こう言うのは、簡単だ。
実際には、こんなに、すんなり行かない。。。。

作品「messy」は、本番の数週間前に出演者が急遽変更になり、
東京で最終リハを行うも、仙台の本番前日に、内容に大幅変更があり、
また、仙台から福岡でも、手直しが施された。
その理由は、どうであれ、作品は、常に、変容し続けている。

それは、
成長か退化か?
熟成か腐敗か?
前進か後退か?
上昇か停滞か?

そのどちらを意味するかは、さておき、

二公演を終えた今、
作品自体のエネルギーは、
より大きな熱を持ち、
ある強度を獲得しそうな勢いだ。

舞台上のエントロピーが、それに比例して、
あるいは反比例して増大し、カオスになりながらも、

京都、東京と公演が続いて行く中で、
今後は、どれだけの意味を付与し、
作品の質と強度を高めて行くのかが、
問われているのではないか?。

また同時に、より一層、
その作品の枠を打ち壊して、
越えて行く表現が求められているのではないか?。

そんな気がする。

ふーっ。。。。。。。

やっと、まとまった。。。。。

か???

うううううむ、

なんだこれ、支離滅裂やないか、、、、、、うううううう。。。。

ま、とにかく、

今は、
三月の京都と東京も、
さらに変容して行く作品を、
目の当たりに出来そうな期待と予感があります。

その変容がもたらすものが、
喜びであろうと悲しみであろうと、
できるだけ、多くの方と、その瞬間が共有でき、
新たな多くの意味が付与されることを望んでいます。

んでは、京都、東京、叩きに行くぜ!