芸術家と主婦とサラリーマンは大体同じだと思う。具体的にやっている事は違うかもしれないけど、自分のしている行為が目に見えたり、数えられて世間に還元されているか目に見えない、数えられない形であるかの違いである。目に見えない事を選んだ場合は結果はないのですべては自分で考えて判断しなければならない。どちらにせよすべての事は数えられる事と数えられない事で両立している気がする。

「今日の考え事」

①作品ができた、できない
②ダンスとパフォーマンス
③作家性

最近はこの3つについてよく考えている。
特に”ダンスとパフォーマンス”については前々から気になっていた。

私の舞台履歴はモダンダンスから始まった。
そのうち「作品」を作ってみたいと思いまず振付を考えてみるのだがどうもしっくりこない。自分で作った振り付けであるにもかかわらず「なんでこのこの人踊ってるのだろうか」と感じて作り直す。作り直ししてもまた同じ事を感じてまた作り直す。だんだん踊りがなくなってくる。
でもダンス公演と告知している公演に参加する時などにはダンスを入れないといけないと思いとりあえず入れる。
そうすると何をやっているんだかわけがわからない作品になる。

テーマがないとか
身体的な技術が伴っていないとか
振付したものは私の振付ではなくてどこかで習ったり見たりしたものであるとか
そんな理由ももちろんある。

そんな事を繰り返してこの作品を作り始めて
ダンスとパフォーマンスの間がやりたいのだと分かった。
その間にかっこいい名前がまだない様な気がします。
自分で適当に作ってしまえばいいのでしょうがイマイチ思いつかない。

これが正しい解釈かはわからないけど(いやそれが正しいか正しくないかじゃなく自分の解釈があるかないかは大事だと思うからここは恐れずに言わせて頂きます)私が考える”パフォーマンス”は体を使い「動き」や「行為」を空間や時間を含めて構成したもの。
例としてオノ・ヨーコを作品をwikiから引用します。

『カット・ピース』(”Cut Piece”)がある。一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるのみで、観客 が舞台上に座っているオノの衣服を、オノが裸になるまで文字通り切るという作品である。『カット・ピース』は、作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるとい う、彼女の作品にはよく見られるもののひとつである。大学で、オノはジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティ ティを確立させようともしていた。『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えている。

というように作者の、もしくは体を使った行為、行動自体に作家のメッセージ性が含まれている。パフォーマンスについての成り立ちや種類はパフォーマンスアートのwikiで見て下さい。

対してダンスは体を駆使(技術やメソッドを使い)して空間にうねりを生み出す事で時間軸をなくし、新しいうねりが重なったグルーヴと作家の世界観が一体化した舞台を観客が共有する事ができる。
すっごい抽象的な説明だけど。。。

で、私としては
パフォーマンス性を孕んだダンス作品がやりたいわけです。
それをどう孕ませるのか。
パフォーマンス性を孕んだダンスの身体性に挑むのか
パフォーマンスとダンスを組み合わせたものにするのか

決めないといかん。