あー、寒い。 です。
わたしは、東京にいますが、もー寒い、あー寒い。
さむいさむいさむい〜
と何度でも言ってないと、冬眠状態になって、
口がうごかなくなるんじゃないかと思うくらい、寒い、です。

でも、この容赦ない季節の力、
余計なことをあんまり考えなくさせる自然の力は、
ここ最近の稽古場に、自分に、とてもよい影響を与えていると思います。

極端な寒さも暑さも、
人はほんとは、とてもシンプルに、自分の感性、感覚で生きていることを
思い出させてくれます。だから、きついけど、どこかゆかいな気持ちです。

はい。 で、今日はちょっと、思いがつらつらです。
たぶん超長いですが、よかったらおつきあいください。

寒いからほんとうは寝ていたい。
でも、稽古場で、このメンバーとお茶をのんだり、話をするのは好きだ。

声にだして、メンバーが言うわけではないけれど、
こういう、正直な空気って、やはり、人同士なんで、ちゃんと受け取れます。

もともと、こういう「ぶっちゃける」感じを大事にするメンバーではあるけど
さらにもう、おたがいかっこつけることさえムダだ、と少しずつなってきていること
いいかんじに力が抜けていくかんじ。
こういうのは、わたしにとってもおそらくメンバーにとっても超ウエルカム、
「あー、きたきた。」という空気なんじゃないかと。

わたしは、こうなるとうれしくて、
心のうちでは(多分、外にも出てるけど)、もうはりきってしまう。
でもって、あったかいお茶も甘いものもおにぎりも、稽古場に持っていきます。
(みんな、ちゃんとお茶とか持ってきてるけど、、、それでも持ってくことに意味がある、、はず。)

人をシンプルに正直にさせてくれる、極端なくらいの自然は
やはり、人にとって、とても必要なものなんだろうと思います。
そして、同時に、東京で暮らし、作品をつくることについて深く考えました。

感性や感覚で感じとったものごとよりも、
社会ですでに決められているきまりや概念をふまえること、
それらを優先させなくてはいけない状況に
自分もまわりも、いかにさらされているか。

稽古場は、空間でいえば、いわゆる社会から、
いいかんじにはみだしている場所なんだと再認識しました。

場所として、お金も払って借りてるし、社会的に堂々とその空間を手に入れているけれど、
その空間のなかでは、人は、感性や感覚のみの会話をしてよい前提がある。

ダンサーは、基本的には、社会と稽古場の空間を移動するときに、
ちゃんと、感性をどう開くかという点でも、切り替えができる人たちなんだなと
稽古を通じて思いました。

しかし、同時に、ダンサーのみの人格で生きていくのは、
社会をふまえて生きていこうとすると、とても難しいのだろうなとも感じました。
やはり、切り替えきれない部分もある。
私自身も、切り替えられてない時、今もあると思うし。

ただ、私の場合、今回のクリエイションの機会が与えられていること、あと、
いろんな出来事の中で、
あーこれは、社会から全身全霊はみだしたな、とあきらめたことがある、とか、
多分、性格的なことも手伝って、まわりから、
アーティストとしての人格1本で許されている、というか、、
いわゆる社会人とアーティストを使い分ける必要が
ほぼなくなってきている状況にあると思います。

だからこそ感じることなんだろうけど、
ダンサーが時々、どこか不自由に見えてしまう瞬間がある。
それは、大きく言えば、「ダンス」という枠の中であるから、
ダンスが踊れるという意識を自然に、多分無意識に、持ってしまうこと。
そこに、あまり疑問を持たないでも、過ごせてこれてしまう環境にかこまれていること。

この点は、美術をとりまく環境でも共通する出来事だから、
なおさら、あー、なんかわかるな、と思ってしまう。
たとえば、、、
「美術大学を出ているから卒業しても絵を書いています」みたいなことだ。
美術って何か?と考えたら、ほんとは美術という枠はないはずなのに、
美術大学で経験したことが、いつのまにか、その人にとっての美術になってしまう、みたいな。
別に、美大をでて料理人になってもよいわけで、、
そこ、不自由になる必要ってあんのかなー、とぼんやり思ってしまう。

ただ、そう思っても、自分から何かをしかけようとか、何をどうしたい、と思うことが
わたしは、おそらくほぼないです。
しかし、思えばダンスに出会ってから、
自分が動くべき場ときっかけが与えられている。。。
それは、ほんとに、「縁」としかいいようのない状況でわたしのところに来ている。
だから、縁を受け止めて、今は必死に自分の行動を探っていってる状況なんだと思っています。

でもって、まず、稽古場でのコミュニケーションでは、
経歴や肩書きはいっさい必要ないとあらためて思いました。
これは、もともとの大前提のはずなんだけど、、
でも、あらためて、ダンスの作品をつくっているからといって、
誰が何年バレエをやってきた、とかいうことは、ふまえるけど、
こだわるべきことではないと認識しました。

ここからは、自分に向けて書いてるようなものですが、、

なんていうか、社会でとりあえず生きていくなら、
人の肩書きや経歴はふまえなければならないし、
おそらくみんなは、私よりずっとそこを踏まえる必要のある生活をしているし、
その生活を大事にもしている。それは、とても大切なことだ。

だから、そういう人の背景も配慮した上で、
コミュニケーションを工夫する必要がある。どちらが正しいという問題でもない。
違いを踏まえた上で、歩みよるかんじだろうか。
人のことを考えて行動していくのは、とてもクリエイティブなことだ思う。
今までのように、映像や、絵の具や、布相手では、わたしは経験しなかった新しい出来事だ。
どこかわかっているようで、何もかもが経験として、新しい。

これからの私の仕事は、
ダンサーにダンサーとしての動きを求めるのではなくて、
ひとりの人間としての表現を求めること、になるんだろーな、と思う。
でも、求めて、返ってこなくても、それもOKなんだと思う。
おたがいをさらすやりとりがあったことの方が、なんか、大事だ。
そういう時間が、舞台に乗ればいいと思う。

たとえば、「感謝」を表現して伝えたい場合、
「それは握手をすればよい」という答えがかえってくるとする。

ただ、そこであえて、しつこいくらい粘ってみたいのは、
人は本来、握手という形から感謝を感じとってるわけでもなくて、
でも、ありがとう、は伝わることがある。
そうやって、人のこころを動かすのは、何か、ということだ。

握手する行為は、ひとつの記号で、
どういう気持ちが、その人の手を前にのばさせたか、というところを問いたい。

稽古場を与えられた私の、一番大きな仕事はそれだな。

そんなことを、寒くてふとんから出れない時間に、ボーっと考える日々があって、
いつの間にか、人に接する行動が変わってきたと思った。

特に稽古場では、人のこころを扱っているということ、
だから、自分も、ここにふれるこころで接すること、をものすごく意識するようになった。
そして、それは、東京で暮らしていると、
とても意識して、自分に課さないと、なかなか出来ないことなんだとも思った。

だって、こうして、「こころこころ」とか「ありがとう感謝」、とか
あまりまっすぐに書いてしまうと、
なんか、安っぽいコピーみたいになってしまう、、

そういう率直な表現が、くすぐったく聞こえたり、
時に安っぽいと思われる社会に生きているということだ。

だからこそ巡ってきたこの仕事、とも思う。

でも、不思議と、ガツガツがんばる気にもならなくて、
ここはマイペースでいい、と思えてしまう。
なにか、結果を求めにいったり、「勝負」することがクリエイション本来の目的ではないから。

稽古場で、一緒に変わって行く人々がいて、
いつの間にか、いっしょに泣いて怒ってしている、劇場の人々があらわれ、
日常を共にする、わたしの周りの人々がいる、その人たちと一緒にいることだけが
なんか、大事に思える。

といっても、もちろん、これまでの出会いも、これから出会うお客さんも、
作品を通じてのことだから、作品を人に伝わる形にすることにはファイトを燃やします。

ただ、「挑戦」とか「戦い」とかだけではなくて、
まあ、なんだかんだ楽しいから続けっか、くらい自然な時間が大切なんだなと。

うまく言えないですが、なんか「一人のからだじゃない」んだなと思う。
人のためにもあるじぶんのからだ、って感じだ。
きっと誰もが、ひとりのからだじゃない、はず。だと思う。

えー、というわけで、よく寝て、食べて、いただいた甘酒飲んで、あったまってます。
寒い日に飲むから、甘酒というのはおいしいということを、初めてしりました。