04.27
コンテンポラリーダンスとモダンと
ここ2回のリハ中、初めてのユニゾンをつくりました!
ユニゾンに超苦手意識あるので自分的にちょっと新境地開拓した気分です。
ところで今私は修士論文を本気で片付けるために案外勉強していますが、
コンテンポラリーダンスとモダンダンスの違いって何なのかといえば、
モダンは舞踊によって何かを表象・表現するもので、いわゆる代理表象であって、
コンテンポラリーはそういう意味性とかテーマ性とかよりも、
身体や動きそのものを自由な発想で表現したもの、みたいなことがよく言われたりしています。
確かにそれも一つの定義だなとずっと思っていたのですが、
最近コンテンポラリーダンス自体に結構疑問がわいてきてる中で考えてみると、
上記の定義って、作品の価値がどこにあるかっていう違いなんじゃないかって思ってきます。
要するに、踊りや身体そのものの目指すところ、「よい」とされる踊りや身体があるとするなら、
その目指すべき「よい」踊り・身体の像って案外同じなんじゃないのかと最近すごく思います。
コンテンポラリーとかモダンとかって、振付とか演出とか作品の感じとかテーマとするものとか、
そういう表面的な差異でもって分けてるような?
もちろん歴史的な経緯はありますが、
結局「いい踊り」って、いつの時代も同じなんじゃないのかと思います。
たとえばモダン的代理表象の作品で、私は草の役をやるとしても、
私のやる身体的作業は別にいつもと変わらないと思います。
コンテンポラリーダンスでは「今ここ」のリアルが重要視されるけど、
私は多分草をやってても、踊る以上は「今ここ」のリアルから離れることはできないと思います。
だから結局何が言いたいんだっていう感じになってきましたが、
コンテンポラリーダンスが閉塞感漂ってどうしようもなくなって、
最悪ジャンル自体が消滅したとしても、私自身が目指したい踊りとか身体は消えないし、
変わらないだろうなということです。
身体的な真実で踊ること・動くことさえできれば、私自身にはもちろん、
猫にだって犬にだって、レンガにだって何にだってなれると最近思います。
何にでもなれるということは、同時に何でもないってことで、
それは身体の透明な存在そのものであって、
そんな風に「私」が消えてしまうくらいの踊りが踊れるようになったら最高だなって思う今日この頃です。
まだまだ青いです。
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