テキスト:國府田典明

踊りに行くぜ セカンド Vol.4の選考が終わり発表があった。(https://www.facebook.com/odori2
「報告するぜ」は、今年もある模様(?)。どうであれ、まず書く。

ちなみに「報告するぜ」は主にAプログラムの視点で書いている。今回は”経験者枠”があるので、大先輩には、これから書く事はあてはまらないと思うが、やはり、”踊2″が抱える毎度の状況を改善していきたいので、蛇足でも書いてみる。この報告するぜは、作品批評が目的ではない。プロジェクトそのものの検討や、作家の実情に触れ、「作品づくり」を考えてみるものである。第3の視点と、蛇足も任務と思い、書くことにしている。

また一年が始まるのだが、しかし、厳密には来年の3月いっぱいまでだから、既に8ヶ月余りしかない。初演までは6ヶ月程。この自覚が作家にあるか、もしくは、時間がない事が伝わっているか。つい”今年”というように「年」単位のイメージで話す事が多いが、そもそも、各回の踊りに行くぜは10ヶ月もない、世間からすれば、”短期決戦”の「プロジェクト」なのである。

この点が、作家と、主催開催側の、時間感覚のズレが生じやすい部分である。選考通過は一大イベントなのだが、既に作品構想は走っていないと満足に制作できないかもしれない。来年ある保証もないが、次回応募する方は、年明けには構想が始まってもいいくらい。

これは、Vol.1で私が当事者だった事も振返りつつ思い返す。
当時は8月いっぱいの予定で別のプロジェクト仕事があった。もうそれで、ひと月少ない状態。7月のうちに手をつけてもいいくらい。どうだろうか。作品づくりというのは、そもそも時間が読めないものだろうと思う。これを、契約書を交わして仕事的に行うのだから、作家は結構なプレッシャーになるはず。だが、そこまでの実感は私たちには正直なかったと言わざるを得ないか。弁明するなら、先に決まっていたスケジュールを調整できないのも、事実。正直、並行するしかなかったのが私の時の実情なので、たらればは述べないが、

この「踊りに行くぜ」だけに集中する8ヶ月余りを過ごしても、充分価値はあると思う。

人生のうちに数作品しかつくれないとするならば、その作品の一つに対し、この機会は、多くの援助がある。思い切ってスケジュールを絞るのもあり。主催者はそれだけ真剣にやっている。これは言い切れる。

だから、今回選出された皆さまには、ぜひ、今後の他の予定の調整も、作品制作の戦略になるとお考え頂ければと。過去3回とも、作品の内容以前に、制作の進行でつまづく事がほとんどのチームで起きているので、これを食い止めるには、今すぐ手をつける。夏真っ盛りのうちに、ひとしきりの制作が進められて、秋までに完成に向けての課題が並べられたら、本当に有意義。踊りに行くぜのプロジェクト全体としても、次の段階に進めるのではないだろうか。

とここまで、書いたが、今年は状況は違ってくるかもしれない。

さて、今回の二次選考の初日だけ、その様子を拝見した。A,B全体では、選考を通過した4方のプレゼンテーションを拝見できたという事になる。Aプログラムは、4名選出され、黒沢美香さんと森田淑子さんは実際に拝見できた。4名のうち2名はいわゆる経験者枠。もう二方が若手になるが、森田さんは昨年も選出されていて上演できなかったという事情がある。再度の応募で選出となった。

そのような事で今年は、随分状況が違ってくるのか。新しい悩みも出てきそう。

ただ、そもそも、実情としては応募が少ないようだ。「作品」として、求める深さに達していない、という事もあるよう。

作品の深度とは、、、私のつたない思考をするならば、
作家自身が設定したテーマへの思考が、社会性を伴って(自分なりに)見極められたもの。この事を他者に説得したい、という欲求が、作品欲になるのではないだろうか。

本音がなければ、なかなか他人は興味を持たない。そこに到達するには、一人で考えていても難しいだろうし、何度かの試行を経る必要もある。人生経験も必要である。物事や人の出会いも要素だろう。

舞台上の動きが設定できたとしても、その動きの欲求が作家当人になく、何か生まれる事を他人に任せるようでは、選ぶ気にもならないのである。それだけ自分の「意見」でもある作品には、自覚が必要だし、年に何個も作れるものでもないだろう。そのための日々や普段が必要なのでは。(あたりまえですみません。)

(政治がどうなるかわからないが、、)今のところ世界から見れば、まだ概ね平和で自由がある日本で、「作品づくり」には誰でも望めば取り組める状況にある。そのいわば”幸せな”状況においては、芸術が実世界に影響し、事実をつくる事は割と可能であろう。舞台上で生身の人間が「やってみせる」というのは、それだけのインパクトを表出できると、私は思っている。これを「事実」とも言えるのではないだろうか。フィクショナルな手段を利用して「事実」を実現する事で、”同時代”の話題となり得るだろうし、思考によって現実をつくってほしい。これは私的な期待である。自戒もこめて。

思考にリアリティがある事、社会性を伴う事がおそらく必要。このプロジェクトには、国や大規模な組織の協力がある。これは、芸術活動がやはり人間生活の一つの理想行動である事を、期待されているのだと、思いたい。そういう意義があるのではないだろうか。

こんな文章でいいのか。言い訳しつつ。

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