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ホームレス vs カミイケ

TEXT  飯名尚人
2013年3月8日(金)

JCDNの庭、ここは京都。

明日はいよいよ京都公演、様々にいろいろな人間模様が繰り広げられている。「踊りに行くぜ!!」になくてはならないドラマがあるわけで、大人たちによる青春群像劇、とも言える。それでこそ「踊りに行くぜ!!」だ。ははは。当事者たちはたまったもんじゃないだろうが。作品制作って楽しい!芸術って楽しい!だなんて嘘を広めた人は誰だか知らないが、実際はほとんどが苦難なわけで、その苦難を隠して楽しいことばっかし言うてるから、どんどん社会と距離が離れていく。作品制作は苦痛である。ゲロ出そうになる。無理、二度とやれない。帰って寝てたい、というのが作り手たちのその時の心境だろう。ところが不思議なことに、その時は本気でそう思っているのに、また作品作りをやってしまうのが作家の本性であって、そういう人のことを作家というのだ。

18時10分。楽屋で四条の風神雷神、佐東&水野のインタビュー。これについては、後日テキストをまとめてアップする予定。おたのしみに。「えっ?二人同時にインタビューするの?」とテンション低めの佐東さんを、ちょっと写真撮りたいから、と無理矢理水野さん佐東さんで並んでツーショット撮影。なんか二人とも立ち位置遠くないか?とかいいながら。90分くらいのインタビュー。今年はどんなだったか、各地でどんなだったか、各地の主催は何を思ってるか、今後はどーするのか、世の中的にいまどんな感じなのか、など。企画にも課題が多い、もちろん本人たちもそれを承知の上でやっているわけであるから、それゆえ多くの味方が必要な企画なのである。苦痛なのは作家だけでなくて企画者も同じ。どんなことであれ生みの苦しみってのはある。


20時30分。カミイケタクヤ「House the homeless」 のリハーサルを見る。カミイケくんは去年の「踊りに行くぜ!!」で青木尚哉さんの作品で舞台美術やっていた。「廃」という文字がしっくりくる色とカタチのオブジェがダンス作品の風景になっていた。今回は作者・演出家として自らの作品を発表する。青木さんの作品に参加していたときのカミイケくんは「しごくまともなことを演出家にズバッと言うことが出来る美術家」であった。「もっとこうしたらいい。こうじゃないとダメだ。」という風に。そんな印象を受けた。今回はちょっとその印象とは違い、カミイケくんも彼の美術と同じ「廃」になっていた。それが、イイ、と思った。作品と作者が一体化するまで「廃」になったらいいと思った。作者にとって周りの人々が言う「まともなこと」「整理されたキレイな意見」というのが、いかに作品の本質とかけ離れているか。そんなキレイに説明できるもん作ってないわい、と。しかし心のどこかが不安で拠り所がないとき、「一見まともなこと」をつい信頼してしまう。危ない、といつも思う。もっとボロボロのテントの穴みたいに、カミイケくんがなってしまえばいいと思った。作品と作者が一体化した「House the homeless」が観たいなぁ。もちろん、アングラな古くさい世界観ではなく、カミイケくんなりの洗練された手法で。そういう期待を持つ。

この作品を観てもらえば分かるのだけれど、「House the homeless」というのは、作品の主題でもあり、ビジュアルのイメージでもある。しかし僕にとって重要だったのは、カミイケくん本人が「廃」なのだから舞台そのものがカミイケくんになっていくことだ。ホームレスなのは、カミイケくんなのである。ようやく自分の作品と自分自身が対決できるところにやってきた、ということか。ホームレスvsカミイケ。

作者 カミイケタクヤ

最後のシーン、ダンサーの加藤さんがフラフラと舞台を横切っていくとき、ああ、この人がカミイケくんなんだな、となんとなく思う。なんとなく。ダンサーの渋谷さん、加藤さんは浮浪者の芝居をしているのかもしれないし、何かのイメージで踊っているのかもしれないのだけども、「いや、この人がカミイケくんなんじゃないか?」と思った途端に「House the homeless」というタイトルに合点がいった。もちろん僕の解釈に過ぎないから、観た人がどう思うかは観に来て是非何かを思ってほしい。リハーサルを見ていて「そーいや僕は家がないってことが、今まで生きていて一度もないな。所在ないことは多いけど」とか考えながら作品を眺めていた。家があっても所在がないのが現代人であって、都市生活者である。むしろこのボロ布のテントの中にいる人の方が「ホームレス」という所在があるのだな。所在のないのは、そのボロテントに入れない我が身である。だから最後のシーンでボーっとボロテントの外を横切るダンサーの姿は、この作品でのカミイケタクヤそのものであって、だからこそ見ている人すべてが、自分の所在なさをそこに見いだせたとしたなら、、、この作品の使命というのはそこかもしれんな、、、もしこの2人のダンサーたちが「自分は作者の化身なのだ」「作者の亡霊なんだ」って思ってたら、この作品はダンサーによるダンサーのための作品なんかではなくて、世の中の所在のない人に捧げる作品になると思うのである。という感じで、まったくもって勝手に色々と考えながらリハーサルを見学。今日のリハーサルから本番にどう変容していくだろうか。


22時00分。水野さんとラーメン食う。「森鴎外の”舞姫”がいかにとんでもない小説か」という僕の熱弁を聞いてもらい、初音館スタジオに帰宅。ああ、自分の仕事がまったく進んでない。ああ、絶望。スタジオで奥田さんが豚まんくれた。


白い人たち [ビデオ日記アップしました]

TEXT 飯名尚人

京都公演の準備。リハーサル。
なんかみんな白い。なんか白いぞ。顔が。。。会場に来るアーティストの顔がみんな白い。栄養不足か。そうではない。
「模索中」のときのあの白い顔をしている。
発狂してしまっているわけでも、崩壊してしまっているわけでもない。「模索中」なのである。

毎年「踊りに行くぜ!!」では、大抵の場合初演は成功する。勢いというものが作品の細かいところを消し去ってくれて、舞台で一番見たい「勢い」というものが初演で露出する。イベント的にも興行のスタートだから、全体を満たす緊張感がうまい具合になっている。特にこういうクリエイションプロジェクトの場合、すべてにおいて初演のエネルギーはハンパない。しかし次の公演で行き詰まってくる。作品としての冷静さを取り戻してくる。スタッフの反応、メンバーの反応、観客の反応、、、いろいろな情報が一気に直接作者にやってきて、「これで正しいのか」「自分のやりたいことはこれなのか」という葛藤時期に突入する。「あの人は面白いと言ってた」「こっちの人はクソだと言ってた」「惜しいと言われた」「最高に良かったと言われた」、、、矛盾だらけの感想が悪魔の囁きのように耳に入ってくる。精神的に一番ヘヴィーな時期である。

「やりたいこと」と「実際にビジュアル化されたこと」の違い。伝わってるはずだと思ったことが、伝わってない。「まあ、やりたいことはわかるけど、しかしねぇ〜、うーん」と周りから言われる。そして白くなっていく。
この白い時期を越えると、作品は突然強度を増す。
しかし、心の広い観客やごく親しい友人、無責任な評論家とかから「まあ、おもしろかったよ」などと安易に褒められ、鵜呑みにすると一生白いままになってしまう。打ち上げや酒の席で「やっぱダンスはいいよね、舞台はいいよね、いろいろあったけど、俺たち頑張ったよね」などと安易に労い合って安堵してしまうと、白い状態から無自覚のまま抜け出せなくなる。サイアク。

なんとか自力で、忍耐と努力でもって、この白い状態から抜け出さないといけない。天才はいいなぁ、忍耐も努力も必要ないんだからさぁ。。。とか言ってる場合ではない。自力で解決するしかない。
作品を作ることに慣れている作家などいない、と僕は思う。慣れている人、というのは、作り方を知っている、ということだから、まあいつものようなことをやるわけで、そんなものはツマラン。ビジネスにはなるだろうけど。
作品は毎回一から作るのだから、いつもいつも白くなって当然である。しかしながら、なんとか死ぬ気で結論を出さないと、チケット買って見に来てくれる観客への責任は果たせない。
それは逃げられない事実。

★報告するぜ!!ビデオはこちらへ [ youtube ]


報告してなかったぜ。

TEXT 飯名

どうも、全然報告してないぜ!
なぜなら、やっぱり報告するとなると、現場に行って、アーティストや主催者にあって、各方面から取材して、、、ということをしないとダメです。全国ツアーに全部ついていけたらいいけど、うーん、金欠。言い訳。ジャーナリスト失格。

とはいえ情報収集はしている。facebookやブログでは「わーい、大成功!」と楽しそうな写真がアップされていくけれど、実際は色々大変なことも起こっている。アーティストも主催者も観客も、様々に葛藤しているのであって、それでこそクリエイションだ、舞台だ、とも思う。

さて、福岡公演が終わって、次は京都公演。いま僕は京都に滞在中。なので、京都公演はビデオ取材して、どんどん映像をアップしていこかと考えている。

それと、京都の風神雷神といえば、JCDNの佐東、水野のコンビである。この2人の対談も実施する。乞うご期待。

チャオ。


MuDA 試演会 @ 神戸:兵庫(Art Theater dB KOBE)

Text 國府田典明
2012年12月16日

試演会の私見。

試演会としては、観客からの発言も多く、実のある内容になったようだ。
ただ、どのように作品にしていくのか、その点が欠けてしまっていた。

話を聞くところ、
今ある案をすべて見てもらいたいという気持ちと、30分という枠に捉われた結果、
間を取っ払ってしまった、ネタみせの羅列状態になった。また、慣れない試演会で関係者に見せる事からの、出演者の過剰な緊張もあったようだ。この結果、単発の動きは見せられたものの、作品を成すための間や、演出の軸・方針が見えにくくなってしまったように思う。

「試演会」をより有意義にするための、会のコーディネートや構成のカウンセリングは、JCDNとして提供すべき事柄かもしれない。当然ながら、会の直前には打合せを行っているのだが、おそらく直前数日間の内容を詳細に把握する事も必要かもしれない。試演会である以上は、同じシーンでも2パターンやってみたい、というような、時間をかけざるを得ない事もあり得る。そのような場合は、一作品30分という訳にはいかない。作家経験が浅く、現場進行の臨機応変さに欠けるケースは割とある。この点は主催者もリードしてもいいところだろう。

余談だが、カミイケのレジデンスでも、試演会前夜の指摘で、急遽シーンをつくる、という事があり、作家がほぼ徹夜で調整する、という状況が実際にあった。主催が手が回らない、作家が成熟すべき、という事も理解出来るが、事実としてこのような状況を、私も何度か見ていることから、試演会に向けての対応方法に、改善策を検討してもいいのかもしれない。

本題にもどり、試演会後の主な感想は、
<常に全力である事や、出演者4人がほぼ同じ動きをする事の一辺倒さと隙間のなさ、これが単調にさせている。>
<シリアスさがありがちなものになってしまい、客として見苦しい状態があった。>
<美術をもっと活用すべき、音楽との関係性をもっと考えてもいいのでは。>
このようなものだった。

動きはかなり独特であるにも関わらず、音や美術との関係性を失う事で、彼らの持ち味でもあるシュール(笑い含む)さが、場にはまっていなかったように見えた。

Quickは、先の飯名のインタビューにもあるように、ただひたすら熱心だし、悩みながら動きを選んでいる。決して安直ではないのである。その精神は、充分すぎる程、動きにも感じるのだが、見せ方・作品としてコントロールできていない。精神的に余裕があれば、このアクセル全開加減が、美術や音楽と絡まって行けるのか、これは今回だけでは判断出来ないが、まさに演出家が必要な状況とも思える。

実際に「演出」のクレジットはこのグループにはない。作はQuickであるが、美術の井上信太氏が事実上、演出的役割を担っているように話を聞いていて感じた。(具体的な役割分担は当人に確認していない。)井上氏と音楽の山中透氏は、他のメンバーと経験値が一線を画している。内部のコミュニケーションは、それぞれの持ち場を超えすぎない関係性があり、興味深い。主催としては新人・新作という部分を条件としている事、あくまでも、応募したのはQuickである、という点で、外にも中にも気を使う事での、グループ内政治に余計な障害が起きないか、世話焼きだが少し懸念する。

また、Quickは(人前での)表現やシーンの説明において、言葉に窮するケースが多く、この点は今後の活動としても、ぜひ努力してクリアしてほしい部分と思う。短期間でクリアする必要はないし、独自の言葉でもいい。イメージを作品に定着させるうえで、最もシンプルな方法であるし、他人が介在して発展出来るからである。(踊りに行くぜ本番には間に合わなくても。)

MuDAは、踊りに行くぜセカンドの参加者の中では、チームとしての成熟度はこれまでで最も高い。踊りに行くぜでは、作品制作以前に、身内のコミュニケーション問題が、ほぼすべてのチームで起きているが、おそらくMuDAは応募以前にクリアしているので、残り一ヶ月の詰め作業に期待したいと思う。


MuDAの舞踊哲学、みたいなことと、僕が何を期待しているかについて

Text 飯名尚人
京都 2012年11月29日

報告が遅くなってしまった!

さて、京都でMuDAの稽古を見学し、Quickとメンバーに話をきいた。
これまでに僕が観たMuDAの印象は、作品というパッケージに向かうグループではなく、その場その場のライブ感にいかに身を委ねるか、ということに重点を置いたグループであると感じて来た。それゆえに「舞台芸術」というよりも「ライブパフォーマンス」として観る方が観る側にも矛盾がない。僕はそれはそれで良いと思っている。しかし、「踊りに行くぜ!!」の場合「作品を作る」ということがメインテーマであって、たとえ最高のライブが出来たとしても、それだけでは目的が違ってしまうのである。作品を作るということは、少なくとも意図的な行為なんだと思うから、「その意図は何か?」と観客も問いながら観るはずである。

「ダンスにとって作品を作るという意味は何か?」ということを考える。そもそも美しく踊っている姿を見たい、と思うのであって、「花のように美しく、蝶のように優雅に」踊れたら、それは最高のダンスだ。ところが、、、そんな時代じゃなーい、ということも分かっている。もし、コンテンポラリーダンス、と自らのダンスを名付けるのなら、今現在の有り様の中で一体何を思って踊るのか、何に挑むのか、を提示しないといけない。そのバランスがダンサーを悩ませるのだとも思う。

MuDAのQuickは、「花のように美しく、蝶のように優雅に」のタイプの思想を持ったパフォーマーだ(と思った)。MuDAの場合は「泥のように、菌のように、鉄のように」ということになる。その舞踊哲学と、そこに介在する演出というものがどう構成されるのか、が今回の見所になる。美術の井上信太や音楽の山中透との作品内における関係はどうか、ということも見所かもしれない。経験値の高いこの二人のアーティストは、MuDAにどう入り込んでいるのだろうか。(山中透のプロフィールには「MuDA結成」と書いてある。)

さて、稽古を見学してから、インタビューをしたので、以下はその一部。

★★★★★

飯名:Quickはこれまでに、クラブイベントも含めて色々な舞台をやってきてるね。今回「踊りに行くぜ!!」に出演するにあたって、クラブイベントとの違いは?あるいは「踊りに行くぜ!!」に出演するにあたっての作戦ってある?それとも、そのまま、いつものまま挑んでいるの?

Quick:まんま行ってる、といえば、まんま行ってるんですけども。今回はこうしないといけない、とか、そういうこともないんです。

飯名:例えば「踊りに行くぜ!!」だったら、こういうのが好まれるかな、とか、そういう打算的なことってないわけね?(笑)

MuDAメンバー一同:ないです、ないです(笑)

飯名:メンバー全員そうなのね?

Quick:そういう風にしてきてる人が集まってきたグループだと思うんです。

飯名:MuDAというグループは、毎回どういう風にクリエイションが始まるの?つまり、前の公演が終わって「よし、次もやるぞー」なのか、それとも、、、

Quick:毎回そういう風には行きたいんですけども、初めて自主公演が2012年2月だった。その次が4月の公演があって、もう「やらなあかん」みたいな感じでした。
「こんなことしたいなぁ」「じゃあ、いついつしよう」ということではなくって、「次、これをやる。さあどうする?」みたいな感じだったんです。この時の自主公演が「踊りに行くぜ!!」の審査の対象になったんです。もちろんその前に企画書は出したんですが、僕らは補欠だったんです。なので補欠審査だったんです。

飯名:その時の企画書って何を書いたの?僕は企画書は見てないから知らないんだけども。

Quick:そのときは、「MuDA 鉄」というのを出しました。詳しい内容ではないのですが、宇宙空間で一番安定する物質というのが鉄で、ぶつかって融合して、また分裂して、最後また鉄に向かっていく。そういうことがキッカケとしてありました。なんか僕らは、言い方がよく分からないんで「そのもの」って言ってるんですけども、「そのもの」みたいなもんに向かいたい。触れたい、なりたい、というか。MuDAをはじめた時から、根本的な思いは変わってないっていう、、、根本のものを求めていく。そこで「鉄」というのに引っかかって。もしかしたら、「えー、前と一緒やん!」ってなるかもしれないんですけども。もちろんMuDAはメンバーがこんだけ沢山いるから、全く新しい、全く前回と違うことをやれないこともないかもしれない。動きも世界も変えてみようと思えば変わるんでしょうけども、思いとしては、自分らが一番イケてる状態を出したいんです。前回から1ミリしか良くなってない、前進してなくても、ホントにもうこれ以上は出来ませーん!っていう状態を見せたくて。

飯名:パフォーマンスにはタイトルがつくでしょ、毎回。今回は「鉄」。前の作品は「泥」「菌」だった。それは、何か言葉からのイメージがあるの?1ミリしか違ってないとしても(笑)。でも、実際は、音も美術も毎回違うことやってる。そうすると、タイトルってもはや記号みたいなもので、特に意味がない、とかそういうこともある?

Quick:いや、やっぱり意味はあって、「菌」のときは、菌というバーっと繁殖するイメージ。倒れては立ち上がる、というのが基本動作で、自分らの動きとかメンタリティー。僕ら、普段はクソですけど、舞台の本番ではバーっと燃焼して広がる。ほんま良い部分だけでも広がっていく、みたいな思いとか。「菌」っていう音とかイメージがいいやん、とか、そういうのもあるんですけども、思いはあるんです。動きとか流れが、そうやってちょっとずつ変わっていくんですね。

★★★★★★

頭の奥底にボソっと浮かんだ漠然としたイメージというものが体を通じてビジュアル化されていくことが、ダンスの醍醐味だと思う。そこにストレートに挑むことを明言しているQuickの真面目さ(愚直さ?)に魅力を感じる。

「1ミリ進んだところを見せる」というのは、まったくその通りだなと共感した。このことはつい忘れがちである。つい思い上がったプランを立てて、空振りしてしまう。しかしダンサーはその1ミリの進化に何十年もかけたりする。そこがダンスの魅力なのだ。この1ミリを過度な演出で埋もれさせてはいけないし、MuDAが見せるべきはその1ミリでしかない。もちろん、それを作品として構成しなければいけないから、勢いだけでは成立しない。MuDAもそういう段階に進んでいくべきかもしれない。少なくとも「踊りに行くぜ!!」では、MuDAが提示する構成美も見せてほしいと期待している。

さあ、どうなるか。


カミイケタクヤ試演会

Text 國府田典明
2012年12月15日

試演会見た私見。

うごめく布を30分間見続ける、ミニマルアート、というようにも見えた。
動きを丁寧に見て行けば、人の動きの表情も見えてくるが、そうなるためには、作品の見方を誘導するなど、まだ「前提」が必要と感じた。意図として、この「うごめき」がダンスなのであるが、見間違える事での誤解の可能性も大きくはらんでいる。芸術とは、その誤解をも含有するが、あまりに逸脱すると、せっかくの作品がチープにも成りうる。

今回は出ハケまでは検討していないため、会が始まると、まずダンサーは普通の身体で布の下に入り、そして暗転してスタートした。しかし、これがないと、布が舞台美術なのか、衣装なのか、”着ぐるみ”のようなものなのか、これがわからないのである。

舞台上の「(布の下にある)身体」を感じるべきなのか、「うごめく布」を見るべきなのか、迷いながら見た。

作家の意図に介入して見なければ、布のモンスターなのか、動く地形を見ているのか。コンセプチャルな仮装大賞(海外の参加者に見受けられる)にも見えてしまう。前提がなければ、布の下にはうごめく機械装置がある、と誤解される可能性も現段階ではある。(これはダンサーの力量にかかっており、高度な挑戦でもある事を示している。)作品時間は30分。その30分のどの段階で人を感じさせるのか。またそれが、身体表現なのか、布の動作なのか、という格段の違いを見せる必要がある。

舞台美術としての「布」。ダンサーは布の下にいるという「前提」。

今回、カミイケが挑戦している事は、身体を見せないダンス、である。何をもってダンスと呼ぶのか、という問いへの挑戦でもある。
舞台美術家がつくるダンス作品、として取り組んでいるのである。

現状では、観客が作品として認知するためには、まだ高度な理解が必要である。
観客が作家に歩み寄る、マニアックな認識をする状態であり、果たしてこれが芸術作品として成立しているのか、完成度の低い作品とも成りかねない。この点が、大衆性もはらむ興行芸術の難しさでもある。(踊りに行くぜは、難しめの作品を興行できてしまうのも特徴なのであるが。)

マイナス面を取り上げたが、しかし、今回の表現によって、逆説的に「ダンス」は身体のかなり微細な動きも表現になっている事、存在としての「人」が大事な要素である事に、気づかされた。これは、ひとつの研究成果である。

かなりストイックに、身体を見せないダンス、という事に取り組んでいる様子が伺えた。少し、理屈が強過ぎる印象もある。
感情をゆさぶるような仕掛けを、どのように入れ込んでくるのか、その辺りに興味がある。


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