踊りに行くぜ!!

報告するぜ!!

2015年3月11日
ネタバレ注意!感想トーク 目黑大路作品『ナレノハテ』編


写真:草本利枝

飯名:今年度の踊りに行くぜ!!、残すところ東京公演ですので、Aプログラムの3作品に関して1作品ずつお互いに感想を言っていこう、ということで。

まずは目黑さんの作品『ナレノハテ』

水野:飯名さんは初めて観たんですよね?神戸で。

飯名:そうです。その前に城崎国際アートセンターでのリハーサルを観た。

水野:でもあれでしょ、あの時はまだ。

飯名:アイディアを列挙した感じの状態だったかなと。

水野:「舞台上で起きていることは全てに仕掛けがあって作り物なんです」ということを説明するための小芝居を演じたり、照明や音のON、OFFを自分たちで舞台上にセットしてやってみせたり、「舞台上の表現なんて嘘なんです」という“説明”を表現してみせる、という段階でしたね。この途中経過発表を観た人からの感想が、説明的すぎてわざとらしい、批判だけになっている、というものが多かった。で、残り2日間の滞在制作で、じゃあどうすればこれがテーマを伝える表現として成立するんだろう、と捻り出した形が、ほぼ作品の骨格になった感じですね。自らが舞台で表現するという事の意味を問う“批判”と“答え”の両方を舞台上に持ち込まないと、作品として成立しない、ということに気が付けたんだと思いますね。

飯名:城崎で見た時は、この先どういう世界にしていくつもりなのかな、と思ったし、作品の肌触りとしては、すでに何かで体験したようなものがあったんだけど、今回神戸公演で観てビックリした。かなり面白い作品。不思議と爽やかさがある作品なんですよね。何とも言えない3人のバランスがあって、それぞれに違う空間と時間を持ってるんだけど、どこかリンクする世界に住んでる。どこか寓話的な世界にも見えるし、具体的などこかにも見える。すごいリアリズムに居ながら幻想的に見えてくる。ガルシア・マルケスの「幻想的リアリズム」とか、ポドロフスキーの「マジックリアリティー」というような交錯があって、あの3人の世界に引き込まれていきます。

『ナレノハテ』というタイトルの作品なわけですが、このタイトル自身がテーマとして提示されてくる。現実世界の中では『ナレノハテ』な人たちが一生懸命演説しても、日常生活における多くの人々というのは耳をかさないわけですよね。唱い上げるテキストが、すべてのそれまでの出来事を「希望」に変えてしまう。神戸公演では子供も観に来てて、なぜかワイワイキャッキャと声を上げて笑ってみてるんですよね。

水野:どこの地域でも子どもが喜びますね。バカなことをまじめにやればやるほど笑えるという、表現の本質に結びついているから、舞台という概念がない子どもが観てもおもしろいんでしょうね。私は松山で初演をみて、正直、かなり感動しました。主催者側にいても、毎回全ての上演作品に感動するわけではないんですが、なんというかこの作品には心が動きましたね。この感情は何なのだろうと思うに、自分の未来を思う時、成れの果てにしかならんのだろうなあ、と薄らと思う不安を隠し持っていて、しかもそれは自分のことだけではなく、人類の未来も、成れの果ての道を歩んでいるんじゃないか、という絶望が常にまとわりついている。自然界も経済も政治も,とどのつまりに来ているような世界にしか思えなくて。そういう慢性的な状態にいて、この作品をみると・・・救いがあるんですね。ヒトは所詮、ナレノハテなのだ、という肯定から始まれるというか。それでいて、真摯に生き方を問い直している自分を発見したり。まさに、私が舞台作品を観るという行為に期待する、作家の価値観に触発させられると体験でした。

この作品の中で、舞台で表現するということに対する、いわゆる挑戦状を投げつけるみたいな事が起きますが、そういう作品って大体面白くない。それが、なんかプッと笑いながら観れるのは、自分たちの事も含め批判しているからではないか、他人事ではないんだな、ということに、仙台公演後ようやく気づいたんです。それもひっくるめてのリアリティが面白い。

飯名:自分と他人が入り交じってくるような、そういう表現で巧みに牽引していますね。一体誰と誰の対話なのか、とか。

水野:「踊2」の新作制作のひとつの意味は、「え?これが本当にダンス作品でいいの?」っていうダンス作品はこうあるべきだ、という概念を壊すっていうのがあるので、この作品はその狙いが来たなー、やったー!と嬉しいんです。佐々木さん、中西さんもそれぞれの別の特技や芸があり、その技量が無茶苦茶高いけど、所謂ダンサーではない。それなのに、「ダンス作品だよね」って見えるのは何故だろう。

飯名:逆説的だけれど、ダンスという様式に対して、ダンスだけで挑んでいないということかもしれない。多角的にダンスというものを問う作業の中で生まれた表現というのは、フィジカルな感触を残すような気がしますね。

水野:なおかつ、ダンスを批判しつつも3人とも、でもやっぱりそれが核になっているというか、真剣に面白がっているから。

飯名:だから観てる側も面白がれる。悪ふざけじゃないし、おちゃらけてないからだと思うんですよ。

水野:一見ふざけているようだけど、リアルにテーマにきちんと向き合っている。

飯名:彼らなりのやり方で、相当真剣にダンスと向き合った結果、ああなった、ということなんでしょうね。作品全体は決して美しく構成されたものではなくて、はじめから崩れたものになってて、その空間の中に目黑さんのようなキレのあるシュッとした存在がいる。それもまた良いんですよね。作者である目黑さんが、佐々木さんやレモンさんから、葛藤みたいなものを受け取るわけですよね、きっと。

水野:そうそう。「そのダンスは作り物じゃないのか、嘘じゃないのか」と身内から同じ舞台上で突きつけられているようでシビアですね。その緊張感が面白い。目黑さんに何故舞踏をやるのか質問すると、「自分にとっての舞踏とは、<無益性>です。上手く立ち回れない体だったり、排除された体だったり、というのは時代が変わってもあるものですよね。でも、最近はそんな体を見えないようにして、あるいは見えないふりをしていて怖いですけどね。」と返ってきました。目黑さんのいう無益な体、というものがイメージしにくかったのですが、今回の作品の体をみると、なるほど、ダンスというにはあまりにも陳腐な動きに、存在自体の無益さに目が離せなくなりました。あと、全然専門分野が違うはずのレモンさんの飄々としたパフォーマンス、全く表現していない、こうしよう、ああしよう、としたって絶対できないだろうあれも凄い。

飯名:怖いですよねえ、レモンさんのようなタイプのパフォーマーって。

水野:ねー、もう、釘付けになるよね。

飯名:この作品は、演出上の決定というのを誰がどういう風にジャッジしてるのかなというのは気になりますね。偶然出来たわけはなさそうだし、かといって、誰かがフィクションとして構成演出を作って指示しているようにも見えない。ものすごく文学的で、寓話的な世界が生まれていて、例えば、誰もが相手にしなかった人間が、ホントの最後に最も正当で本質的なことを、誰に伝えるわけでもなく語る。そういうハッとさせられるものがありますね。

水野:各地で、あのレモンさんのパフォーマンスに感動したという人が多かったです。

飯名:出演者3人がパフォーマーとしてちゃんと役割が際立っていて、キャラも違っていて、でもちゃんとリンクしている。この作品は、すべてがスッキリ全部、キレイに処理される作品じゃないと思うんですよね。

水野:まだ制作を初めて間もない頃、目黑さんにとって、どういうダンスが目指すべき“ダンス”なのかを聞いてみると、「現代社会の体とはどういうものなのか、というところですね。あとは、出ている人がいかに魅力的に見えるか、ということをテーマと共にやっていきたいと思っています。だから作品によっては、アウトプットは何でもいい、体を使わなくてもいいと思っているんです。」と言っていたのを思いました。今回の作品は、まさにブレていないですね。

私も神戸公演をみて同じように感じたかな。最初から最後まで皆、もうナレノハテになっているから、作品が始まってから30分の時間の経過を通して、無益な3人がそこにいて、その時に感じることをパンッとやれば、それで良いのかなと思う。それで説得させられる。

飯名:「何なんだろうこの時間」っていうくらい、間延びさせちゃっても、いろんな事が考えられるのかなっていう気はした。昨日今日と2回観たけど、飽きなかったですね。

水野:いつまでもそこにいてほしい人たち、無益な人たちを観ていたいって思いますね。今回のような作品が出てくると、ダンス作品って、振付家とダンサーだけでつくらなくて良いんだな、って思いますね。

飯名:そうですね、そういう広がりがあるんだなーと思いましたね。「踊りに行くぜ!!」でダンス作品というものを皆でつくりましょうと言った時の、ダンス作品というものが必ずしも既存のやり方のダンスではなくて、多様な人々がダンスというものを言及していくということで出来てくるダンス作品もあるというのが分かった。

(その2に続く)

<東京公演情報>
渾身のAプログラム3作品。一挙上演。

2015.3.21(土) / 3.22(日)

会場: アサヒ・アートスクエア

チケット予約/詳細情報:https://odori2.jcdn.org/5/schedule/tokyo.html

<上演作品>

「#1天使ソナタ」 川口智子

「To day」 桑折 現

「ナレノハテ」 目黒大路

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