報告するぜ!!
閲覧注意:ネタバレトーク 山下残「左京区民族舞踊」 編
2017年03月03日

話:

佐々木治己
水野立子

司会:飯名尚人

<根源的な「なぜ、自分はそれをやっているのだろうか?」というようなもの>

飯名:『左京区民族舞踊』は札幌公演で上演されましたが、佐々木さんはどういうふうに見ましたか?

佐々木:この舞台の面白いところは、妙な脱力感で、その脱力感はどこからくるのかというと、どこまで本当で、どこまで嘘かという虚実が入り混じっているような距離があるため、わざとやっているのか、真剣にやっているのが分からなくなる感じがしてくるんです。ふざけているからといっても、苛立ちのようなものは感じず、妙な愛嬌に包まれているんですよね。そこで行われていることには、表象不可能性、再現をめぐる差異性などという、ある意味で舞台をやっていればすぐに直面するが解決の出来ない面倒臭いことを扱っているので、そういうことをそのままやると、ただ退屈な舞台になってしまうのですが、この舞台では愛嬌がある。いい大人の男たちが集まっていて愛嬌があるというのは、貴重なのではないかと思いますね

飯名:どのあたりで愛嬌を生み出していると思いましたか?

佐々木:中心にいるタンバリンの田島さんが持つ愛しさやキュートさが中心でありながら、それを取り囲む山下さんたちも、引いているのか熱中しているのか、何が本気で、何が嘘なのか、ちょっと分からないまま構成されていて、そこで何が仕掛けられているかというと、「動くということは何なんだろう」、「踊ろうとするということは何なんだろうか」という、根源的な「なぜ、自分はそれをやっているのだろうか?」というようなものを、冗談半分に楽しみながら試している感じがします。しかし、最終的には、半信半疑だった何か分からぬものに入っていってしまうというところがあって、何重にも括弧がある作品なのだなあと思いました。何が愛嬌を生み出しているのかというのは、そういった雰囲気の作り方なんだと思います。

<舞台の上での、ダンスのドキュメント>

飯名:水野さんは、どのように、この作品を「ダンス作品」「コンテンポラリーダンス」として定義していますか?

水野:舞台上で起こるダンス・ドキュメントだと思っています。ただ、ある日のワークショップを切り取った稽古場の1日をドキュメントにしました、という見られ方をしたら不成功かな。

飯名:舞台上でのダンスのドキュメントですね?

水野:はい。ダンス・ドキュメンタリーって宣伝文では銘打ってます。実際、映画ではなくてドキュメンタリー作品がパフォーミングアーツのジャンルで出来たら面白いと思ったんです。ドキュメントというと1日とか1年とか時間をかけてテーマを追い続けるというのが一般的だと思いますが、山下残さんの新作のアイデアを聞いていると、1秒でも1分でも「ダンスが生まれる時」というものが切り取られるダンス・ドキュメントということなのかなと思ったんです

佐々木:「生まれる時」というのは感じました。水野さんからもドキュメントというのを聞いていたというのもありますが、「ダンス」「左京区」で、左京区民族舞踊というのをやるときに、どうやってその民族舞踊が生まれるのか、という視点で見てしまいます。始まり方もそうで、これから生んでいくというのがあるから、当然、最後には、これから何か生まれるんだろうという期待感がある。しかし、「生まれる」ということに対する疑い、「はじめる」ということに対する躊躇、誤解など、さまざまなものが繰り返されるんですよね。そうやって見ていると、「これは間違いがずっと繰り返されているのではないか?」と思うこともありました。でもどうやら、それは間違えでもなく、はじまっていたんだ、ということに、後から気づいていく。見ている方が期待をする「確たるもの」はなく、「はじまり」というものは、はじめからない、という感じがありました。「はじまる」ということ自体が柔らかくユーモラスに批判されていて、見ているものの期待や欲望が批判されるというのもありますね

水野:そういう意味でいうと、先ほどのダンスそのものが立ち上がるドキュメンタリーの要素と、舞台が進行する中で舞踊団・カンパニーが立ち上がるのか? というトピックスも含まれていて、もちろん上演が終わったら本当にカンパニーが出来ました、ということにはならないだろうから、そこはフェイク・ドキュメントも含まれているんですよね。その仕込み感とリアル感がユーモアを生んでいるように思います。

佐々木:私が書いた札幌公演のレポートで、はじまりみたいなものを期待していながらも、「終わりだけがある」というようなことを書いたんですが、用意されていたものは、終わりだけだったという感じがしましたね。

水野:それは、リアルに受け取っている感じですね。カンパニーって、偉大な師匠がいて、真面目で一生懸命にやるメンバーがいるから、カンパニーが成立すると思われがちだけれども、実はいい加減なところがあるから成り立っているんだ、という暴露本のようなネタが、意外に深いところをついていて面白いですよね。なんか得体のしれない人が出てきて、田島さん、こんな師匠の言うことを信じられるか、ついていけるか、という問答が吉本みたいで可笑しい。私自身もカンパニー経験者なんで妙にリアリティを感じて笑ってました。

佐々木:「誰が連れてきたんだ」とか。昔のドリフとかじゃないですが、偉い師範がいて、それを志村けんとかがやっていて、偉い師範は実際には弱かったみたいなコントの図式として最初は見てしまうんですが、見ていくとそうでもない。こういうところが、見ている者の欲望をずらす部分なんだと思います。ダンスも含めた舞台芸術が基本的にお約束のようなものを用いて見ているものの欲望を満たすというのがあります。そういった部分をただ批判するのではなく、巻き込んで考えさせていく。

<演劇的な楽しみ・・・何かの演技をしている、というのが演劇の本質的な部分だとしたら、この『左京区民族舞踊』は、何かの演技をしていると言える>

水野:コンテンポラリーダンスの作品だと、起承転結も役割もないものもありますから、この作品は役柄の設定がありその役を演じるというより、存在? なのかな、を担っているわけですから、演劇の人にウケるんじゃないかという気がしました。実際、佐々木さんも演劇の人だし、札幌の演劇界の人から受けてましたよね。

佐々木:演劇の人、特に演出家たちは、構造的に見る傾向はあると思います。

水野:佐々木さんの友達の演出家も来てくれたけど、この作品は演劇ではなく、ダンス作品だと彼らには観えたのかな?

佐々木:たぶん、私も含めて、演劇、と思って見ているかもしれません。

水野:そうかー。ストーリーを説明していると感じる?

佐々木:演劇はストーリーを説明するというということでもないのですが、ある出来事のはじめと終わり、それが構造的に捉えられている。ダンスと演劇の区別というのを、私はもともとあまりしていないので、なんと言えばいいか。

水野:ストーリーや筋立てを重視しないということはありますかね。

佐々木:演劇的な楽しみとは何かというと、演劇は、演技をするということです。それぞれに役割があって、何かの演技をしている、というのが演劇の本質的な部分だとしたら、この『左京区民族舞踊』は、何かの演技をしていると言える。それは、左京区民族舞踊という架空のものを作っている時点で、それを演じているというように見えるわけですね。単純な意味で演劇と言えるのは、演じている、ということではないかと思う。

水野:確かに作品の構造として、あるフィクションのかたちがありますからね。ただ、一方でリアルなダンスとして、振付の元となるネタから、メンバーがダンスにしようとする過程をみせていく、最終形だけみるとどうやってダンスが生まれたかはわからない。でも、あえてその過程を、観客と共有するためのネタバラシを見せることは、山下残がこうやって体からダンスをつくっているのだ、というそのリアルなダンス感もあると思います

<民族舞踊なんて絶対に言えないことを、
民族舞踊と言い切るということはどういうことなのか>

飯名:水野さんから、ダンスドキュメント、というのがありましたが、あの構造を一般的なダンスカンパニーに置き換えてみると、ああいう風に振付家や演出家がいて、周りは何かよく理解する前にやらされていって、いつの間にか、最後はみんなで輪になって踊っている、という、、、謎の共同体、新興宗教のようでもありますね。

佐々木:ダンスか?演劇か?と、この作品は言われやすいと思いますが、それはなぜかと言うと、呪術というものの演劇性が一つあるんだともいます。たとえば、医療を施すときに近代的な医術ではなくて、ここに物を置いて、こういう衣裳を着て、というように決まった儀式めいたものになっていくということの演劇性。

水野:新作のアイデアの段階では、「左京区に舞踊団を立ち上げる」ってタイトルで、そこから「ダンスが立ち上がる」というところにフォーカスされていった。なのでダンス・ドキュメントとしての対象が変わってきたということはあるかな。集団からダンスそのものへ。

佐々木:団でもない。

水野:民族舞踊と言い切るということはどういうことなのか、残さんと色々話しました。残さんにとってのダンスの定義は、一般的なダンステクニックに裏付けられたものとは違う次元のもの。漫画でヘタウマ漫画というのが流行りましたがうまいこと言いますよね、ヘタでウマイ。ダンスでいうと何がヘタで、何がウマイかということなんですが、残さんの踊りがヘタという意味ではなくてね。一見して即興かな、と思うけど、即興は1ミリもなく全て振付されている。何が自分たちのメソッドなのか、テクニックなのか、と言われればはっきりわからない、そういう整理されていない山下残のある種ドグマ的なダンスに対する視点もひっくるめて民族舞踊と言ったのだろうなと
最後のシーンで、ダンサーどうしがぶつかりそうになりながら盛り上がるシーンあるでしょ?

佐々木:札幌の2回目の公演ではぶつかっていましたね。

水野:そうでしたね。狭いところで窮屈そうにやるよりも、もう少し場位置を広く取ってやったほうがいいのでは? と言ったら、いや、そういうことをやりたいのではないんだと。残さんがかなり前、大野一雄さんのところにワークショップを受けに行ったときに、ダンサーがぶつかりそうになりながら、それをかわして踊っている感じがすごいよかった。ダンスが生まれそうな場のあのダンサーの感じ、そういう雰囲気を再現したいんだと。聞けば、なるほどそうだったのかと。ダンスが生まれるディティールだけというのではなく、その時の空気感のようなものも計算してるんですね。が、どうもそういうふうには見えないなあ、とかを緻密に積み重ねて、実はすごく変わってきていると思います。

佐々木:山下さん自身が呪術師のようなところがあるんですか?

水野:あると思います。そういう意味では、民族芸能やカンパニーはいかにいい加減なところから成り立っているのか、っていうリサーチをかなりしたみたいですね。民族舞踊を習いにバリに行ったり、城崎のレジデンスで一緒になった時は、黒田育世さんと話してカンパニーとはどういうものですか、とか聞いたりして。

佐々木:民族舞踊でもなんでも、途中で復活させようとしたりする動きもあって、勝手に作られてしまうということもある。そういった重いテーマも持っていると思いますが、この作品は、全部あっけらかんとしているんですよね。この「あっけらかん」に可能性を感じるんです。不真面目というのでもないんですよね。この明るさがいいと思いました

水野:田島さんの個性も強烈ですしね。田島さんのやることに、マジで笑いをこらえようと必死な残さんに、一番笑えますね、私は。

(了)

<LINK>

巡回公演地からの声・レコメンド集② 山下残『左京区民族舞踊』
https://odori2.jcdn.org/7/?p=1341


公演情報
東京公演3/17-19 チケット取扱
https://odori2.jcdn.org/7/?tag=loc-tokyo

京都公演 3/25-26 チケット取扱

https://odori2.jcdn.org/7/?tag=loc-kyoto