報告するぜ!!
【東京Cプログラム】ソケリッサ!「日々荒野。」制作レポート
2017年02月15日
記事:曽和聖大郎
撮影:山﨑 貴
〔2017年1月7日(土)快晴〕
イイナさんに依頼され「新人Hソケリッサ!」の制作現場をレポートしに、東京都江東区森下にある稽古場へ−−−
新人Hソケリッサ!というのはダンサーのアオキ裕キさんが路上生活者を勧誘して作ったダンスグループだ。
目下、3月に発表する新作公演「日々荒野。」の製作中ということらしい。
共に東京湾に注ぐ隅田川と荒川に挟まれてある江東区は、そのほとんどが江戸時代以来の埋立地である。
南北を分断するように16世紀末に開削された小名木川が走っている。森下あたりは江戸以前は海岸線といったところで、見渡す限りの湿地帯に葦が生い茂るような寂しいところであったろう。
季節外れの暖かな日差しがアスファルトの冷たさを和らげる昼下がり、町工場の連なる路地を抜けて森下スタジオに到着した。
『この原野の上に今現在展開されている〈東京〉という現象は人々の想念のカタマリだ。
人々もまたこの地の〈意〉によって吹き寄せられた〈動く土〉で、家並やビル群は生い茂る〈葦〉だ。
原野が私達に夢を見つづけさせる。
踏みしめるアスファルトの下の〈原野〉を想う時 嬉しくて懐かしくて身ぶるいがする。』
(杉浦日向子「YASUJI東京」)

【ストレッチ/Stretching】

13時45分、スタジオの重い扉を開けると、そこにはソケリッサ!のメンバー3人の体が仰向けにゴロンと転がっていた。アオキさんの他に、大柄な横内さん、小太りの伊藤さんの三つの体である。もう一人のメンバー小磯さんはビッグイシュー(ホームレスが委託を受けて販売する雑誌)の販売が休める状況になく本日は不参加とのこと。仰向けの姿勢から下半身を捻り、ゆっくりとしたストレッチが始まった。防音壁のスタジオの中はしんと静まり返って心臓の音さえ響いてきそうだ。
2001年、ニューヨークに滞在していたアオキさんは、9.11のテロによる衝撃と混乱を現地で目の当たりにすることになった。それは、己のダンスに対する姿勢を見つめ直さざるをえない体験だったという。
表面的ではない、もっと内から発する踊り、より本質的なダンスというものを生み出さなければならないと感じたのだ。それが現在の活動に至る模索の始まりだった。
日常生活の中で培ってきた現実感を破壊するような現象に出会った時、それまで持っていた世界把握の方法が役に立たなくなったと認めなければならなくなった時、人は自分の手で新たなリアリティーを掴み直さなければならなくなる。それはときに表現のリアリズムの更新に繋がることがあるのかもしれない。例えば、世界大戦という巨大な破壊の後、ロベルト・ロッセリーニは廃墟の広がるヨーロッパで「無防備都市」や「ドイツ零年」といった新しいリアリズムを抱え持った映画を撮ることになった。第二次世界大戦も、9.11もそれぞれに多くの人々のリアリティーを破壊したのだ。
日本に帰国して、しばらく経った05年、新宿でストリートミュージシャンの演奏をよそにお尻を出して寝ている路上生活者の肉体にアオキさんは出会う。社会と視線を交わさない肉体。その存在感に惹きつけられたという。アオキさんはそこに新たな肉体のリアリズムの予感のようなものを発見したのかもしれない。
それからホームレスを勧誘し、一緒に踊る活動を始めた。横内さん、伊藤さんは共に約8年間、ソケリッサのメンバーとして踊っている。本日休みの小磯さんももう4年ほど参加しているという。アオキさんはそんなメンバーのことを「おじさん達」と呼んでいた。
リラックスしたテンポでストレッチは続く。股関節、脊柱、手首、肩甲骨に肩関節、そしてあらゆる筋、顔の筋肉に至るまで、丁寧にゆっくりとほぐされていく。三人の関節の可動範囲はそれぞれ少しずつ広がっていく。このストレッチだけを見ても、個々の身体には少なくない違いがあることがわかる。硬い体、柔らかい体、重い体、軽い体。それは生物としての個体差ということでもあるであろうし、これまで経てきた肉体の歴史の違いでもあるだろう。しかし、その動きを見ていると、アオキさんだけでなく横内さんや伊藤さんも、自分の身体にとって何が可能で、何が可能でないかを熟知しているようであった。無理はしない。自分の肉体に語りかけるように動きを咀嚼している。その点において三人の運動への集中の質は変わらない。
やがて椅子に腰掛けたまま目を瞑り、瞑想のようなエクササイズが始まった。アオキさんは「頭の上の空間を意識してください」と言い、続いて前方、後方と身体の周囲の空間に意識を巡らすように促していく。おじさん達の身体の意識は、その肉体を満たし、空間に染み出し、拡張されていく。
『美術が、どんなにプロ的なものでも、それがわれわれを感動させるとすれば、その結果にいたるためには、(中略)その偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。』
(クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」大橋保夫訳)

【エチュード/Etude】

一時間程かけた入念なストレッチの後、休憩を挟んで15時過ぎに稽古は再開された。
休憩中から横内さんと伊藤さんはスタジオに円を描くようにウロウロと歩き回っていた。そこにアオキさんも加わり、やはり歩きながら声をかけていく。
「そこにいるだけ、、、そこにあるだけの体、、、」
「足裏ぁ、足の裏を感じて、、、聞こえる音、、、空間の匂い、、、呼吸、、、吸って、、、吐いて、、、」
歩きながら、アオキさんの言葉に反応して体を動かしていく二人。歩行という動作の中で肉体がニュートラルに整えられていく。五感が一つ一つ確かめられ、開かれていく。
「自分の体を感じて、、、捻る動き、、、伸ばす動き、、、縮める動き、、、体の色んなところが縮んでいきますよ、、、はい、揺らして、、、自分の体を観察してください、、、揺らしやすいところ、揺らしにくいところ、、、揺らして痛いところはないですか、、、」
「硬く硬く、、、硬い体の動き、、、柔らかく柔らかく、、、柔らかい動き、、、今度は内面も硬く、、、はい、次は内側も柔らかく、、、」
「自分の体をこの空間よりも大きく、、、今度は小さく、、、速く動く体、、、ゆっくりと動く体、、、繰り返して、、、速く、、、遅く、、、自分に流れる時間を感じてください、、、」
アオキさんは身体の状態、運動の感覚を観察するよう繰り返し促す。おじさん達も自分の動きを確かめるように動いては歩くことを繰り返す。投げかけられる言葉は、具体的に知覚や運動を指し示すものから、次第に抽象性を帯びたものに移り変わっていった。
「バランスを崩して歩きましょう、、、崩れる瞬間を大事にして、、、」
「赤いイメージで動いてください、、、赤いイメージ、、、自分なりの赤のイメージで、、、赤に感情はありますか、、、どうですか、、、」
「自分じゃないものになって、、、自分以外の生物、、、見たこともない生き物かもしれない、、、」
「今度は水のイメージ、水の中かもしれない、自分が水かもしれない、、、自分の中から出てくる動きを観察してください、、、」
「口を開けたまま動いてください、、、次は口を尖らせたまま、、、どうですか?内面はどうなってますか、、、」
「動きをジャッジしないで、よく自分の体を観察してくださいよ、、、」
そして、アオキさんはおじさん達に「自由に動いてください」と言った。アオキさんの言葉を受けて動くのではなく、おじさん達が自身の中から出てきた動きを即興的に紡いでいくということだ。
「自分の中から出てくる動きを積み重ねて、、、先の動きを予測しないで、、、次どんな動きがしたくなるか、観察して、、、動きがどんどんが出てきますよ、、、」
ストレッチによって解きほぐされたおじさん達の肉体は、言葉と動きの連環によってイメージへの感度が高められ、創造的な電荷を帯びているように見える。掌を開いては閉じ、床に寝っ転がって体をくねらすおじさん達の肉体に去来しているのは、記憶か幻影か。
ここでトム・ウェイツの「Time」がかかる。この日初めて稽古場に音楽が流れた。「この空間を感じてください、、、音楽を感じてください、、、音に合わせても無視しても自由ですよ、、、」
It’s Time Time Time…、横内さんと伊藤さんがトム・ウェイツのしゃがれ声を呼び水に、順番に即興ダンスを披露していく。横内さんはダンスをやっていて、この即興が最もやりがいを感じる瞬間だと言う。自分の中からどんな動きが出てくるのかわからぬまま、一か八かで踊ってみるという緊張感。確かにそれは瑞々しい体験かもしれないと思った。自分の肉体を通して、記憶か幻影かわからぬが自分の中に眠っていた何ものかと出会い直す行為、と言えるかもしれない。
ホワイトボードには、アオキさんによる作品全体のコンセプトとなるテキストが書き連ねられてあった。
「−−−けっとばされる石ころ。その運命。……日々荒野。」
即興ダンスが終わると、アオキさんから事前におじさん達に手渡されていたテキストについての説明があった。ホワイトボードに書かれたものとは違い、作品の内容というよりも、おじさん達の動きを引き出すために投げかけられた文章なのだという。横内さんには「吐き出す よどみの風 イラつくかたまり 全身から指先へ シューシューと呼吸する毛穴 草食の目つき 消えゆくカラダ」、伊藤さんには「枯葉 地に落ちる 暗闇の中でゆったり燃える 不安なかたまり 消え行くカラダ」とある。これを元におじさん達それぞれが自分で振り付けを考えてきていた。
それぞれの振り付けの発表が終わると、アオキさんは「オッケー、いいですね!」と拍手をする。そこには徹底した肯定があった。アオキさんにとって、おじさん達の肉体は作品を構成するための素材ではなく、輝きを見出すべき原石そのものなのである。アオキさんはおじさん達の肉体とその動きに秘められたものを、“原始”または“野生”と呼ぶことがあった。ホームレスは都市的な存在であるから、そのようなフレーズが適切かどうかはわからない。しかし、アオキさんはおじさん達の中に現代社会に見失われたある原型(アーキタイプ)のようなものを探しているのではないだろうか。アオキさんがおじさん達に向けている眼差しには憧憬とでもいうべきものがあった。
試行錯誤の末に辿り着いたであろう、イメージとカラダを連携させ、振り付けを自発させるこのような制作プロセスは、おじさん達の身体の自由を奪わずに躍動させるための器として設計されている。その器の中だからこそ、肉体の記憶が身体運動として具現化されうるのだ。ソケリッサ!とは、そのような器としての“場”なのである。
『(煉瓦で橋を作るならば)石材は互いに完全に嵌まり込んでアーチを作り上げます。けれども、浅瀬のなかに散らばっている岩の塊は、岩であり、岩のままであって、それらの岩としての現実は見せかけのものではありません。なぜなら、次々と跳んでいくことで、私はそれらの岩を川を渡るために使うことができるからです。それらの岩が私にとって一時的に石材と同じ役割を果たしたのは、私が、それらの岩の並び方の偶然性に私の創意を補い、偶然性に対して岩の性質と外見とを変えることなしに、それらに一時的に意味と効用を与える運動を付け加えることができたからです』
(アンドレ・バザン「映画とは何か?」)

【セッション/Session】

16時頃、今できている部分の通し稽古が始まった。おじさん達が振り付けたパートも組み込まれ、アオキさんも加わって、ときにコミカルに、ときにノスタルジックに、シーンが展開していく。もちろん、それぞれのソロパートも味わい深いが、アオキさんとおじさん達が身体を接触させて踊るところに特に興味を惹かれた。アオキさんの手が伊藤さんのお腹をさする。連動するようにおじさんの腕が震え始める。倒れかかるアオキさんの脇を支えて引きずる横内さん。恐らく、そのような肉体的な接触を伴った踊りにこそ今のソケリッサ!の魅力が集約されているように思う。アオキさんとおじさん達の身体(記憶の座)が綯い交ぜになり、火花が散る。

【ソケリッサ!の現在地】

ソケリッサ!という場を保持するオーガナイザーとしてのアオキ裕キと、ダンサーとしてのアオキ裕キ、二人のアオキ裕キが存在している。これは分裂した二つの人格だ。オーガナイザーとしては、おじさん達の魅力を発見し、引き出し、揺籃する。しかし、ダンサーとして彼らと同じ板の上に立った時に、自分は一体どういう存在であるべきなのか。アオキさんはダンサーとしての技術を培ってきたゆえに、その技術から逃れることは難しい。本番中、踊りながらもオーガナイザーとしての自分が出てきてしまうこともあるという。
彼にとって、自分が持っていない何かを持っているおじさん達の肉体と、どう向かい合って踊るべきなのか。たぶん答えのない問いである。しかし、その引き裂かれた想いこそがドラマチックなのだ。肉体の接触の伴う踊りの中で最も明瞭にほとばしっているのは、まさにそれである。ダンサーとしてのアオキ裕キとおじさん達の全力のぶつかり合いが実現したら素晴らしいと思う。ダンサー・アオキ裕キがおじさん達の肉体とともに踏みこえる“自由”が見たい。
また、ソケリッサ!の活動を始めた頃、10年程前は、舞台上で寝てしまうなど予測不可能なメンバーもおり、現場で何が起こるかわからない不安定さがあったという。しかし、今はダンサーとしてのおじさん達の実力も上がり存外安定しているという印象がある。それは素晴らしいことに違いないが、一方で想定外の軋みや摩擦がなければ、ある種のエネルギーの発火が起きないことも事実である。アオキさんは、ギリギリまで新しいメンバーを募集したいという強い意欲を持っていた。新しい血を入れることで、不定形なエネルギーを呼び込もうとしているのだろう。
関係の安定は活動の持続を生むが、関係が不安定に震える時にこそ作品は輝く。持続した活動としてのソケリッサ!と、取り返しがつかない作品を発表するソケリッサ!。考えてみると、極めて難しい両立に思えるが、その矛盾を抱きながらこれからどのような展開を見せていってくれるか楽しみである。
〔2017年2月8日(水)晴れ〕


【公園は真空の荒野となるや否や】

北風吹く東池袋中央公園。「日々荒野。」の舞台環境を図るための通し稽古が行われるという。3月の上演はこの公園で行われるのだ。
アオキさんは新しい血を入れた。30分と極めて短い公演時間の中で、ソケリッサ!は生き様を見せることができるのか。ダンサー、アオキ裕キとおじさん達の燃焼を見届けよう。
「日々荒野。」の公演は、3月17日・18日・19日にある。チケットがなくても、東池袋中央公園に行けば観ることができる。
曽和聖大郎
和歌山市立砂山小学校卒業
Yachaoo Cinema Label代表