報告するぜ!!
【札幌公演レポート1月14日】
2017年01月27日

記事:佐々木治己
写真:yixtape

「私は何をしているんだろう?」という疑問は、日常生活を送っていてもときどき訪れては消えていくような疑問であって、その疑問を苦に思い悩むこともあるのが、何かをすれば忘れてしまうようなものだったりする。日常生活では「生きる」ということがスローガンのように掲げられているため、「生きにくい」疑問は閑却されていくというのは、とても合理的なことだ。気にしないようにしないと生きにくい、生きられないのだから気にしなければいいということで、どうにかこうにか悩みの少ない人生を謳歌しようとする。前向きで、合理的で、分かり易くて、気分がいい。そんな風に生きていたら、自分のことが正しいと思ってしまいそうだ。私のしていることは正しい。そこにポコっと「私は何をしているだろう?」という疑問が現れる。私は正しかったのに、これでいいということをやっていたのに、なぜ、その疑問は現れるのか。あれでもダメか、これでもダメか、となったときに、魔が差すように見に行くのが、ダンスなどの舞台芸術なんじゃないかと思うのです。


2017年1月14日に生活支援型文化施設コンカリーニョで、「踊りに行くぜ!!Ⅱ」が開催された。
上演順に報告するぜ!!


1. 山下残『左京区民族舞踊』 (Aプログラム)

何もないところからはじめるというのは集団創作では当たり前のことだろう。では、何もないところとはどんなところだろうか。何かをはじめるときには、それぞれが持ち寄った考えや技能が元になることが多い。そしてその考えや技能を尊重したり、批判したりしながら創作がされていくわけであるが、この作品では、そのような「はじめる」ということに疑問を投げかけているように思えた。
ダンサー三人が指導者の模範実技を繰り返していく。やり方は笑いを誘うようなものであるが、そこには再現の可能性と不可能性、反復によるズレがどことなく滑稽に示唆されている。「トイレに行きたい」などの生理現象を口走ったことまでも指示として理解されてしまうというやや説明的なお笑いがくるのかと思いきや、誤解された指示ではなく、「トイレに行きたい」というイメージを行えという指示であるとすぐさま展開され、見ていると予想を一つ一つ外される感じがある。いわゆるベタにも思える仕掛けがベタから外される。指示は不明瞭な言葉になり、1人だけが理解する。そのような仕掛けや謎は解明も究明もされずに、そういうものとして舞台は進んで行く。
「何をしているんだろう?」という疑問も、稽古が中断されたような場面の中で話されているが、すぐに再開される。そのあとに、混沌としたダンスに仕上がっていくのかと思いきや、未成立のままに放り出され、最後に何事かをしたかのように終わる。見せられたのは、何かをはじめようとして、それが何だか見ている方もやっている方も分からないようになりながら、ごちゃごちゃして、突然、終わる。終わりだけある。と告げられたような気がしてならない。
「はじめる」ことへの柔らかい批判は、「おわる」ことを受け入れる準備をしているに過ぎないと思わせる。はじまりにあった伝達、反復のズレと集団のパロディは、何も生み出さないまま、おわりになる。この舞台はおかしみを振りまきながら、最後に寂しいような恐ろしいような印象を与える。終わりだけがある。(3月17日〜19日@東京、3月25日、26日@京都があります!)


2. 鈴木明倫『KAMUIRU』 (Cプログラム)

白い布が垂れ下がり、ゴミが上から降ってきた。薄暗い中、目を凝らしていると、白布の前に1人のダンサーが立っている。ゴミが当たっても動きもせずに。固そうなゴミの音がする。当たったらどうしよう、と思いながらもどこかで当たらないかな、と期待していると、当たった。しかし、動かない。彼はこの中で快楽を覚えているのではないだろうか、きっと、ジャン・ジュネのように汚濁の中で聖性を得ようとしているに違いないと思っていると、はげしく動きはじめた。これは通過儀礼では? と思いながら、久しく忘れていた聖と俗、通過儀礼、などという言葉が浮かんで来ていることに照れながら成り行きを見守っていると、そのような流れに疲れ果てたように、体を何度も転倒させながら、死と再生を思わせるようにゴミの山に倒れていった。リサイクル。そして暗闇。舞台が明るくなると、半裸、ズボンが変わっている。何かになったのだろう。そして彼は別の何かへと変わって行く。白布を引き下ろし、舞台を横断する道のように仕立てて、獣のように歩いていく。
一つ一つ丁寧に場面を考えて実現していっている舞台だった。勘違いしながら見ているのかもしれないが、二分された構造に世界を落とし込み、その中に自身を晒し、統合の道を探すということは構造としての単純さがあるだけに、そこにある存在にすべてがかかってくる。あれでもない、これでもないという試みの中で、このままつっきっていくのか、それとも、また違った視線をもった人との共同作業をしていくのか、鈴木さん自身の歩みが気になる作品だった。


3. 松崎修『北海民謡物語』 (Cプログラム)

震える青年がいた。椅子には三味線を抱えた女性がいる。自分がどうしたらいいのか分からないとき、自分より先にあるもの、誰かに支持されているもの、定評のあるもの、馴染まれているものというのは、受け入れたいという気持ちと拒絶したいという気持ちが入り混じるものだ。三味線が鳴り、徐々に唄に乗せられて踊り出す。両手には唄われる物語の登場人物らしきものをかたどった手袋があり、そこでは悲恋なのか、艶話なのか唄が聞こえにくくて分からないが、身振り手振りで物語っている。しかし、すんなりと物語るのではない、何度も震えが起こる。素直に物語っていれば、それで済む、しかし、それは「自分ではない」と言っているように見える。三味線が終わると、また大きく震えだす。禁断症状を見ているよう。次に女性が三味線を起き、懐かしいラジカセでテープを再生すると、私でも知っている「ソーラン節」が流れる。女性に手招きされて身振りを教わりながら踊る。
ここで気がついたのだが、ただ見ていた私も「ソーラン節」に少し乗っていた。震えには乗らないにも関わらず、「ソーラン節」だとなぜ乗ってしまうのか。同じではないだろうか。震える青年が、音や拍子がなければ、ただ震えるしかできないように、見ている私たちも、いろいろなものを剥がれてみれば、震えることしかできないのではないか? と問われているような気がした。すぐに何かに乗っ取られ、そして何もないと不安になる。
山下残『左京区民族舞踊』を見た後というのもあるが、何かをするときに立脚するものに対するためらい、疑い、拒絶、受け入れ、そのようなことを考えさせられた。


4. 伊藤千枝『次は、あなた』 (Bプログラム)

最後の作品になる。1作品目と3作品目には、何かをするということに対する根本的な疑問を感じていたが、4作品目は、そういったことは感じなかった。「何かしてみなさい」と優しく見守るようなところがある。吹雪の音や気持ちの良い音楽、そして魔法をかけるようなシャラララーというような音。それらを含めて、男女2人の踊り手たちが何をしてもいい、自分たちが求めることをすればいい、それは魔法なんだ、と言われているような作品だった。理屈をこねくり回すのが好きな私にとって、魔法、となると、そうか! と何も言えなくなってしまうのだけれど、おとぎ話を見ているような気持ちになった。2人の男女が色々なところを旅し、吹雪などで想像してしまう厳しさも乗り越えて、何かを見つけていく。しかし、それはすべて魔法だった。
シャラララーと長い暗闇の中で音がする。明かりが点くとカーテンコール。いろいろごちゃごちゃ考えちゃうかもしれないけど、いっときでも魔法にかかってみようか、と言われているような気がした。はじまりはじまり〜、そして、おしまい、と紙芝居を見ているような作品に思えた。舞台を見終わった直後は、どう考えればいいのかさっぱり分からず、レポートを書かねばならないのになあ、と焦ってしまったが、舞台を見て一週間ほど経って、「おしまい」と聞こえたような気がしている。