鳥取公演、初演前夜「ZERO ONE」を語る。


          「ZERO ONE」ゲネプロ@鳥の劇場  photo:Shinji Nakashima

余越さんは、N.Yを拠点に活動するアーティスト。今回日本での初めての作品制作を行いたいということで、「踊2」に応募がありました。N.Yのダンス界では注目を集めている振付家ですが、日本ではほとんど知られていませので、まずは活動紹介から。

ニューョークのダウンタウンで頭角を現したのは2003年。日本でもたまに耳にするNYの現代舞台芸術を対象にした“ベッシー賞(最高振付作品賞)”(勅使河原三郎2007年受賞)を受賞。その後、日本舞踊と出会い10年間、世家真ますみ氏世家真流家元の日本舞踊の稽古にNYと東京を往復する。
「藤間勘十郎の“素踊り”は、アメリカで生まれたジャドソン世代のポスト・モダンダンスの美学と哲学に近接している。」と感銘した余越は、世家真ますみとの共同制作を開始する。
「what we when we」(2度目のベッシー賞・最優秀振付賞受賞)「Tyler Tyler」)、昨年はNew York Live Artsから初のレ(ジデントコミッション・アーテイストに選ばれ「BELL」を発表、3作品を制作した。「BELL]は歌舞伎舞踊の名作「京鹿子娘道成寺」とロマンチックバレエの金字塔「ジゼル」をベースに、日本と西洋の歴史的、文化的様式美とその成り立ちの相関性と差異を舞台上に再構築を試みた意欲作。ダンス批評家のあいだで大討論を引き起こしたらしい。

物語性をベースにした日本の古典芸能を現代へと翻訳、置き換え作業に10年間没頭してきた余越が、振付家としての次のステージとして挑むのが日本初制作の「ZERO ONE」。
明日初演となる鳥取公演の前夜、ゲネプロを終えたあと宿に戻ってからインタビューをおこないました。

2014/1/25録音@山紫苑 鹿野町
(聞き手・録音・テープ起こし・編集:水野立子/プログラム・ディレクター)

>>米国と日本でつくること、発表することの違い。

(水野:以下略)いよいよ明日、初演となりましたね。余越さんにとって、見てもらう対象としても作品をつくる相手としても、アメリカ圏を出て初めて日本での作品制作を行うということですが、20年もアメリカでやってきていると、何か違うなあと感じることはありますか?

(余越:以下略)そうですね、アメリカ人というよりニューヨーカーと言ったほうがいいのかも。今までずっと、ニューヨーカーを主な観客の対象としてつくってきています。日本人とは作品をつくったこともありますが、伝統芸能の人や、ニューヨークに住んでいる日本人ダンサーです。

何が違いますか?

うーん、今の時点では、ニューヨークに帰ってみないとそれが何なのかはっきりわからないですね。今回の二人の双子のダンサーの一人のほう、(福岡)さわ実ちゃんはヨーロッパに住んでいるので、日本で踊る、日本でつくる、ヨーロッパ人以外との制作は初めてのようです。

なるほど。そういう意味では、つくる意識として何か違ってくるのかな?

「ZERO ONE」は日本人に見られるのだ、という目線は意識しています。具体的にいえば、使う予定だった曲からお能の笛や鼓の音を数日前にカットしたんです。というのは、日本人は伝統芸能に対してフィルターが入っていて、それだけで構えてとられてしまうというか。私には何故それほど、カテゴリックに分けるのかよくわからないんですが。面白いし作品に必要だから使っていたんですが、「日本の人にはわからないよ」と、まわりから幾度もいわれて。

そういえば、鳥の劇場でのレジデンスの初通し稽古では、邦楽が2曲ありましたね。

あ、そうそう、そのうちの1曲をやめたんです。レジデンス最終日の途中経過発表で、鳥の劇場で見てくれた人々やスタッフからもいわれました。「そんなの関係ない」とか思いながらも、だんだん、やっぱり無理かな、、、と。(笑)つまり、そういうことも感覚に入れて、作品がさらされる目線が違うんだから、そこに合わせてつくるということも考えざるをえないです。
それは同時にニューヨークでも考えるわけですよ。例えば、日本の伝統芸能をベースに作品に取り入れる機会があったんですが、ニューヨークでは歌舞伎も日本舞踊も知らない人がみるわけですよね。まったくその文脈がわからない人に対して作品をつくるから、どこまで情報を与えないといけないのか、というのをいつも迫られるんです。劇場や観客、スタッフから、これじゃ伝わらない、この土地では無理だ、とずっと言われてきた。それに対して、私の判断で、いやこれでいい、とか、じゃあ考慮しようとか。なので、考えてみるとニューヨークでも日本でも、作品がさらされる視線をいつも意識しているかもしれない。

反対になったというだけのこと?(笑)?

そうですね。(笑)ベクトルが逆になっただけ。つくっている土壌とか、誰とつくっているのか、誰にむけているんだろう、いつの時代につくっていて、どういう視点で作品を提示しているのか、というのはすごく考えますね。“今”つくっているものが、“来年”同じコンテクストで見せても、おなじように通用するとも思えないです。
時代がどんどん変わっていくから。

>>コンテンポラリーアーティストだから私は。今の自分がつくるしかない

ダンスってやっぱり今ですから。

余越さんの場合、いつも、どれくらいと考えているんですか?つまり作品の正味期限。

2年。

過去に2年以上たった作品は再演しない?

したことないですね。

オファーがあっても?

はい。

常に時代とともに同時代の作品をつくるという意識から?

コンテンポラリーアーティストだから私は。今の自分がつくるしかない。この作品にしても今までの10年間の活動があった上でないとつくれなかったから。それに、来年だとつくれない。ダンサーも来年だったらきっとやってくれないと思う。今だからタイミングが合ってつきあってくれている。おそらく、わたしも「今」じゃなきゃつくれないと思う。ダンスってやっぱり今ですから。それに、この作品は資金的にとても難しいです。

皆さんバラバラのところから来てますからね。全員日本人だけど国際プロジェクト。(笑)

本当に厳しいですよ、資金繰りが。今回はこのプロジェクトに協力してくださる方々のご好意で実現できていますが、自分で資金を全部集めてすべて整ってから、一年たってからオファーさせてくださいと制作を先に伸ばしたら、無理でしょうね。今回も「踊2」で、作品を鳥取に持ってきて、鳥の劇場のお客さんに出す、というのを意識して作ってきましたし、ここにきて作品をベストの状態にもってくる、ということを常に一番に考えていますね。一発勝負っていうのかな。

この作品をアメリカで来年以降、さらに制作する計画があるとか?

そうですね、いまその計画を準備していますが、申請結果がどうなるかまだわかりません。でも制作しなおす時はまた作品が変わっていると思いますね。目指すところは同じだろうけども、コンテクトが変わり、作品を見る客の目線が変わり、ダンサーも時代も変わっているでしょうから。

昨年の12月末に拝見してから、ほぼ1か月が経過していますが、さすがに明日の初日にピシャリと照準を合わせてきているなあ、と思いながら今日のゲネを拝見しました。

ダンスが出来上がるのは見られてですよ、客の目にさらされてこそダンスが立ち上がるから。私がリハーサルみていて、感動する日が何日もありました。すごいなーこのダンサーたちは、というのが、何回もあった。ただそれは私しか観てないですから、日々作品は変わってきます。それを鈍化せず、尖がったまま、彼女たちがマックスでいける状態にもっていきたいですね。もうこうなるとコーチングですね、手綱をひきしめたり、ゆるめたり。

photo:Shinji Nakashima
>>「双子だから、そろって踊れるわけじゃないんです。」っていう気持ちが、あの二人にはいつもあるんじゃないかな。双子姉妹に対する一般論っていうのが打ち破られてくるっていう気がします


この作品はダンサーありき、だとお聞きしていましたけど、ダンサー二人の完成度には満足していますか?

ええ、そりゃあもちろんです!この作品は“ダンサーが作品”です。彼女たちなくして「ZERO ON」はありえない。福岡双子姉妹はすごい素直。私が言う言葉に身体で素直に返してくれます。今回のこの二人の特色は双子だという設定です。たぶん一人一人と仕事したら、またぜんぜん違うと思うし、一人とほかのダンサーとデュエットつくっても全く違うと思うし。どの双子でもなく、この特殊な二人、福岡なま実、さわ実の持っている“関係性”、そこにわたしが真ん中にはいって、二人を見るという、すり合わさった3人の関係性でできている。

なるほど。作品の中で二人が喧嘩、というか、踊りのことで言い合っているシーン、何回みても笑えるんですが。(笑)

ああ、あれは本当に揉めているんです。あのまま、なんです。あれよりもっとすごい(笑)。
双子だからといって、(ユニゾンに)そろえられるわけではない、と二人は言います。「皆さんは、双子というのはそっくりで、そっくりに動くという感覚を持つけど、私たちはそうではないし、実際そうではないから、ヨーロッパと日本に活動拠点を移したわけだから。双子だから、そろって踊れるわけじゃないんです。」っていう気持ちが、あの二人にはいつもある。「じゃあ違いを肥大化してみようじゃないか。」ってやってみると、ピタリとそろえてくるんだよね。(笑)あえて“そろえないぞ”ということを自分たちの中に意識があると思います。双子であるが故に。

それは、本人たちは無意識で?

はい、そうですね。無意識に。そういえば、今回、制作協力ではいっている吉村摩耶ちゃんも双子なんですよ。

え?そうなの?

そうなんです。以前アメリカでやった、高校生とのダンスプロジェクトのときも双子姉妹がいて、双子のデュエットつくったんです。それもかなり特殊な経験だったんだけど。今回みたいにがっつりやるのはもちろん初めてです。

なんか、引き寄せている感じですね。

そうかな、、、なんか、双子姉妹に対する一般論っていうのが打ち破られていくっていう気がします。

photo:Shinji Nakashima

昨日、福岡姉妹に直接聞いたんだけど、他のダンサーとやるときは、全く感じないことなんだけど、二人でやるときだけ真剣に毎回、踊りながらムカつくらしいですよ。(笑)

そうみたいですね。二人でここを話し合って、すり合わせて、なんとか詰めようという時、お互いの力の作用のぶつかり合いと寄合いの感じが、ホント独特ですね。私も自分で何度もデュエットを踊ったり、色々なダンサーや、自分も含めて、ダンサー同士のコミュニケーションの取り方とかバトルとか、あらゆるバージョンを経験してきましたけど。これは、みたことがないですね。(笑)

お互いにゆずらないんだ?(笑)

うん。ゆずらないんだけれども、「ゆずらないね?」っていうと、「いや、同じこと言ってるんです。」って言うから面白い。(笑)なんか、ふたりがかばい合うっていうか。

本当はわかりあっている、みたいな?

そうそう。(笑)

水野 「双子をじっとみてダンスを集中してみていると、この作品のテーマみたいなものが透けてみえるから、おもしろい。」
余越 「体の存在というか、人間の存在の観察になってきてますよね。本当に細かく。」

踊り見ていると、ふたりすごい合ってますね。振り自体というより、ダンスの魂みたいなものが合ってます。

そうですね。合ってる。それゆえに、両刃の刃というか。ある種、弱い点もシンクロしたりする。

それがまさに今回の作品のテーマでもあるしね。ZERO ONEという。
そういう意味では、双子をじっとみてダンスを集中してみていると、この作品のテーマみたいなものが透けてみえるから、おもしろい。

体の存在というか、人間の存在の観察になってきてますよね。本当に細かく。

特にこのダンサーのチョイスが、まあだからこの二人を選んだのかなと納得するのは、個性を消せますよね、このダンサーは。本当に無になれる体だから、、

体だけが残るから、存在が前に出てきますね。やっていて毎日が驚きの連続です。(笑)

双子と作品が相互作用でクロスしてみえるから、おもしろいですね。最後のシーンで、揺れるんですよね、世界が。現実なのか虚無なのか、退廃なのか、救いがあるのかないのか、わからなくなります。自分の存在を自分で否定したり、いじめたり、肯定したりするダンス。それを感じさせる振付をひきだすミソは?

まあ、でもそれを持ってくるのはこの二人ですからね。提供してくれる彼女たちの勇気とか情熱とか、とても大きな決断だと思うんですよ、こういうことやるの。今までは、双子に生まれて違う場所で、あえて二人で踊らない、というチョイスをしていたわけだから。

どういう経緯だったんですか?

まな実ちゃんを最初に知っていて、双子の姉がダンサーやっているということを後から聞き、すごくびっくりして。しかもヨーロッパで私も知っている有名なエミオグレコというカンパニーで踊っているということでした。さわ実ちゃんが日本に帰る機会があるなら、是非、デユエットつくらせてね、といっていたんですが、まさかそれが実現できるとは思っていなかったんです。持っているキャパが大きいんですよ、二人とも。もっと引き出せると思う。

>>どうして日本の伝統芸能は、ダンスとしてみなされないんだろう。

最初にダンサーありきでつくってきて、この展開の中で日本舞踊も出てくるのね?

あれね、偶然なんですよ。給金が思うように払えないから(笑)、最初からお礼に日本舞踊のお稽古をしてあげていて、ただ、作品で今回に使うとは思わなかった。やるとしたら次のアメリカバージョンかな、と思っていたんです。

すごくサマになっているように見えますね。

やはりダンサーだから振りとして入るのは早いです。それ故に手順だけになってしまうようなことにならないよう、単なる見栄えだけじゃなくて、踊りの本質をどう伝えようかということにこだわりたかった。見た目がなんとなく「日本舞踊らしい」、というのは簡単だから。 この作品を制作する以前にふたりが、私が今まででやってきたことに興味を持ってくれたんです。レジデンスの合宿中に、三人で日本舞踊やお能のビデオとかたくさん見て、特にさわ実ちゃんはヨーロッパで踊ってきたから、「どうして日本の伝統芸能はダンスとしてみなされないんだろうね」という会話にいつもなるわけですよ。なぜ踊りに敷居があるのかな、という話をしました。

余越さんは、どうしてだと思うんですか?

わからないです。

現実的に日本人として思うのは、そうは言っても簡単に習えない、ということはありますよね。知り合いが先生か、よほど興味を持って門を叩かないと簡単に手に入らない。徒弟制度の壁がある。クラシックバレエやモダン、ジャズダンスのほうが、簡単に手が届く。

日本の伝統なのに、日本人に対して、社会的格差、血筋とか有名人とかお金もち限定とか。今のこの現代に(踊りに)そんな壁がなぜ存在するのかわからない。まあ、それがすごいってことでもあるわけですが。

まあ、広める気がないしね。

だから、二人も本気でやってやろうと、燃えたんですよね。

いいものなのに、ってことでしょ?

そうです。こんなにいいものを、彼女たちもやりたいと思うし体に入れてみてやりがいがあった。そういう意味でいうと三人の好みがあったというか、向いてる方向が合ったから仕事がやりやすいです。

photo:Shinji Nakashima

>>歌ったり踊ったりするときに嘘がない。あれを狙ってやっているんじゃなくて、経てきているから、素直。

しかもそれをよくガールスカウトの歌にのせたよね?あれはどうやって出てきたんですか?

ねえ。(笑)あれはできたのは奇跡ですよ。それも、この短期間に。二人が小さいころ10年間ガールスカウトに入っていたのを知って、お正月に帰省したあと、二人が幼いころ大切にしていたガールスカウトのガイドブックをもってきて見せてくれたんです。で、一晩でこれはすごいな、っていう文章を抜粋して、テキストに起こして。ガールスカウトは英国でうまれたものなので、日本語訳がすごく不思議な感じなんです。時代を何世代も経ている翻訳が、エキゾチック。

ちょっと聖書っぽいよね。最初、聞いたとき聖書の抜粋なのかな、と思った。

二人とも育ちがいいっていうか、お嬢さまっていう意味じゃなくて、躾なのかな、必ずリハーサルの前に雑巾かけとかするし。ものすごくいい子たちです。それはこのガールスカウトの思想からきたのか、と思うとびっくりしちゃって。

あの言葉ってニヒルに笑いたくなるような歌詞だよね。

もちろん、そこぎりぎりで私も演出してます。すごいのは、彼女たちは、そこは本気で10年間仕込まれてきているわけですよ。

あの精神があるわけね。 (笑)

今は大人になって距離を持って、シニシズムを持って眺めるだろうけど((笑)、そこをベースに“善き人間である”ということが小さいころから根底にある。あのセクションは、歌ったり踊ったりするときに二人の身体に嘘がない。それは実際に体験として経てきているから、素直です。あれはなかなか真似できない。

>>やっぱり、ダンスの神様がいるんでしょう。作品っていうのは、提示してくるっていうか。

photo:Shinji Nakashima

じゃあ、あのシーンって、余越さんがやりたかったことが降ってきたのか?彼女たちの体があってなのか?どっちが先なんですか?

やっぱり、ダンスの神様がいるんでしょう。作品っていうのは、提示してくるっていうか。わたしの限られた脳みそにはわからないですよ。作品をつくっているうちに、くるっていうか。テキストを日本舞踊にかぶせたとき、あまりにも難しすぎるし、なかなかテキストが短時間で身体に入らなくて苦労してたんですよ。これはちょっと酷かなと思っていたけど、できたから、すごいねえ、と思って。

なるほど。ところで、まだ初演も終わってないけど、距離を持ってもうみえているんですか?

つくった時点でもちろん、みれてますよ。出てきたときに作家として。だけど最終稿じゃないんですよ。

え?そうなんですか、じゃあ教えて!

いや、ここからこれよりもっと先に作品の終わりがあると思うけど、この時点ではつくれる私の精一杯。
続きをつくるときは、ぜんぜん、違うところに着地すると思う。だから、日本バージョンの着地はここです。

今日、初めて映像出演のたく象さんと美香さんが観られて、なんか聞きました?

美香さんが「やったねー!ダンサー冥利につきるね」って双子二人に言葉をかけてくれてましたね。ダンサーとして、内面が剥き出されるような踊りが踊れるって、やりがいがあるね、と。

なるほど。今回は、美香さんはダンサーではない出演者と、余越さんはバリバリのダンサーとの制作だけど、どう「ダンス」を見出すか、つくるか、はほぼ合致しているように感じます。余越さんは何故、ダンス作品、ダンスでなくてはならないんですか?

ダンスでしかできないものがあって、それ故にやるとしか言えないです。予定調和っていうのがないんですね。ここに行きたいくて、目指すものがあって、台本があって、こういうとこにいきたいな、という風につくれる人はいるかもしれないけど、私はまずつくれないんです。
目の前に人がいて、その人が誰で、どういう風に動くんだ、というところから本当にゼロから始まる。動いてもらって、そこから答えをもらう。作品が生き物で、わたしがそこに仕える召使いのように、ダンスにお聞きして、ああそうですか、こちらですかと、後をついてくような感じ。ダンスに仕えてこそ作るかいがあるというか。

となるとダンサーに委ねるところが大きい?

ダンサーが作品です。わたしが作品をつくるのではなくて、映像に出てくださる美香さん、栲象さんが、浪子さんが作品です。映像はとっておけるけど。ZERO ONEは映像とダンスをライブでみせる時の兼ね合いですね。今起きてることは、今しかとっておけない。ダンスという起きたそばからなくなっていくという、大変に贅沢なお金で買えないものを扱っているので、大切に宝もののようにベストの状態にもっていけることを考えています

公演前日の夜にありがとうございました。明日、楽しみにしています。これから、4箇所での公演、どのようにライブなダンスが変容していくのか観ていきたいです。また、作品のことお伺いしたいです。

photo:Shinji Nakashima