テキスト・写真:飯名尚人

森下スタジオ2階。
黒沢美香さんに話を伺った。
さっそくまず聞きたかったことを聞く。

「どうして踊りにいくぜ!!に応募したんですか?」

黒沢美香さんといえば、コンテンポラリーダンス界では先駆者であるし、知らない人はいない。踊りにいくぜ!!に出なくても、各所で引く手数多ではないか?と思いきやこんな返答がきた。

ー待っていても場がないんですよ、自分でいろいろ調べるんです、どこか参加できる場はないかなって。今回やっていることは、ミカヅキ会議という名前で活動していて、大学教授たちとのクリエイションですし、どこか受け入れてくれる企画はないかなと。それで或る企画にエントリーしたんです。電話して、応募できますか?って聞いたら、是非応募してください、って言うので、これは脈あり!とか思って、私の方で企画書とか書きましてね。そしたら、選ばれなくって(笑)。どうしたものかと思ってたら、踊りにいくぜっていうのがある、って余越保子さんから聞いて、え、なにそれ?詳しく教えて!って(笑)。

写真/ミカヅキ会議 リハーサルの様子(森下スタジオ)

やりたいことがあって、そのための場を常に探していた、ということ。
踊りにいくぜ!!のエントリー状況をみていると、このアイディアをやれる場をずーっと探してた、というようなものは決して多くない。やっつけ、というと少々乱暴であるが、中にはやっつけ感の強い企画書があるのも事実。しかしやはりアイディアを温めてきたものが集まってほしい。黒沢さんのキャリアであっても常に自分から参加していく姿勢は、つまりは「アイディア持ってて、待っていても何も起こらないからね」と言っているわけである。

ところで「渚の風 聞こえる編」とはまた不思議なタイトルである。

ーシリーズなんですが、前回「渚の風」っていうタイトルを使って作品つくって、実は海が出てくるわけでもないし、海を舞台にした作品でも何でもなくて、作中で使われているオリジナル曲のタイトルなんです。出演者の一人が曲を作って持ってきたんです。おもしろいのは、前作の「渚の風」を観ていただいたみなさんが、渚っていう言葉から連想してこの作品を観ていて、感想をきくと「海が見えました」とか(笑)。今回はシリーズの2回目で「聞こえる編」というのをつけたんです。

実際は、渚じゃないところで渚を感じる、というような感覚的な作品だったようだ。そういえば、19歳の夏、僕は渋谷の公園通りのパルコの前をダサダサに歩いていたら、ほんの一瞬潮風を感じたことがあって、そのことを一緒に歩いていたガールフレンドに熱弁したものの、何言ってんの?という具合であったわけだが、潮風を感じた、潮の匂いという錯覚的な感覚、私は錯覚した、という事実。渋谷で吹いた潮風は本当に存在したのか、、、謎。
かつてマギー・マランの舞台作品「拍手は食べられない」を観たとき、冒頭ダンサーが舞台に現れた瞬間、乾いた砂埃を感じ、喉が渇いた。チョン・ヨンドゥが日本で上演したダンスデュオ作品で、四つ這いのヨンドゥの上に女性ダンサーが立ち上がったとき、ふーっと横から一塊りの温い春風が女性ダンサーに吹いた、ように感じた。どちらも勝手に僕が感じただけであって、舞台上に砂も風もない。そんな体験を思い出した。

ー以前スタジオで、ダンサーに言葉を与えて踊ってみるということをレッスンでやって、そのときのお題が、豆腐、だったんです。それで、しばらくやっていたら、遅れてきたダンサーが他のダンサーに、お題なに?ってこっそり聞いたようで、踊り始めたんですね。そしたら、すごい表現で。びっくりしたんです。終わって、感想とかをやりとりするんですが、なーんか話がチグハグだなーって思って、よくよく聞いたら、豆腐、じゃなくて、遠く、って聞き間違えて踊ってた(笑)。私は、豆腐だと思って見てたわけですよね。タイトルというのも、そう考えると面白いもので。

深夜テレビを付けると映画が放映されていて、映画の冒頭を見逃しているからタイトルも知らずに見ていると、学園モノの青春ラブロマンスかと思ったら途中から謎の生物が出てきて、あれれれ?ラブロマンスじゃないのー?!SFホラーじゃん!ということになり、タイトルや事前情報も無しがゆえに、本来であればかなり微妙な映画がこっちの都合でなぜか面白くなったりする。自分自身深夜ノリで可笑しなスイッチが入っていたかもしれないが、タイトルもジャンルもわからない素姓の知れないこうした作品は、当然、予想を裏切る展開を持っている。もちろん作り手の意図に反する裏切りで、単に見る側の誤解であるけれど、時にして作品に純粋さを与えてくれる「美しい誤解」ともいえる。観客の自由さもダンス作品のうちである。

今回、大学の先生、しかもダンサーではない3名とのクリエイションである。ダンサーでない人のダンスの面白さ、というのが黒沢さんのテーマでもあるようだ。
「私は、観客と同じように彼らのダンスを楽しみたいと思っているんです」と黒沢さん。
ダンサーでない人のダンスは、ダンサーのダンスとなにが違って何が同じなのか?
ダンサーでない人のダンスを、ダンスファンは見たいだろうか?
黒沢さんが思うダンスというのがいったいどういう定義であろうか?

「地に足がついた幸福感、というか、そういうもの。」と黒沢さんが答える。黒沢さんにとって、ダンスはダンスであって、それ以外ではない、ということかと思う。黒沢さんは別の言葉でもダンスを定義する。ダンスとは「忘却」である、と。
ブルース・リー先生は「考えるな、感じろ」と僕に言った。マイルス・デイビス先生は「考えろ、そして忘れろ」と僕に言う。ブルース先生も勿論カッコいいけど、僕はマイルス先生に同意している。「考えるな、感じろ」で作ったダンスよりも、「考えろ、そして忘れろ」で出来たダンスが見たい思っている。このことと黒沢さんの「忘却」の意味するところは異なるかもしないけれど。

その一方で僕は思う。専門的技能、つまりダンステクニックを持ったダンサーに、それはできないものなのだろうか。黒沢さんも技能を持ったダンサーである、だろう。技能を持たない方がいい、わけでもないはず。技能を極めて、本番で忘れる。このことに気が付いている世の多くのダンサーたちが、こうした課題にどのような答えを見つけるだろうか。それは極めて難題、なのか、あまりにも簡単すぎて見落としているのか、僕にもよくわからない。

黒沢さんが、これはダンスだ!というような衝撃というのは、他のアーティストの作品をみていて、あるのだろうか?

ー10年に1回、すごいのを見た!というのがあるんですよ。自分自身では2年に1回くらいあるんです。そういう周期で。

あえて、具体的にどのアーティストですか?とは聞かなかった。今回の作品の中にあるダンスにそのヒントもあるかもしれない。あるいはそんな難しいことを案じて作品を観るよりも、地に足がついた幸福感たるダンスに陶酔できれば、それが正解なのかも。