テキスト:國府田典明

飯名と共に森田淑子さんに話を聞き、稽古も少しだけ見てきた。

私は夏の面接の際に傍聴していたので、森田さんの言葉の状況や、決意を拝見していた。
森田さんの受け答えからは、必ず作品を作る、あきらめないという決意を感じる。それは、今回が昨年参加できなかったリベンジである事への責任感でもあると思う。それと、自分自身が本来やろうとしていた事を達成して、生活を復活したいという希望だと思う。

森田さんが言葉を失った後に、どのようにして作品をつくりたいと、またたどり着けたのか。奇跡的に本人は「失う」という事の経験から感じた事を作品にしたいと、動機が生まれ、そしてこの企画に応募し、こうして作品制作に事実臨んでいる。

このような事実があるので、作品制作も、言葉を少し失った状態で行われている。制作活動自体に、作品のテーマが横たわっている。メンバーにとって、かなり難解なプロジェクトになっているようだ。

少し大げさな見方かもしれないが、状況を考えてみた。

今回、ドラマトゥルクとしてスカンクさんが入った状態で創作している。(ざっくりいうならば)作家の考えを整理する役といえるだろう。しかし、森田さんは、言葉が節々で少し欠ける。論理的なコミュニケーションが森田さんとどこまで通じ合えるか。

周囲のメンバーも作家のカウンセラーになってくれてると思う。しかし、おそらく決断らしい決断に、たどり着く事に苦労しているようだ。何を決断として捉えるのか。仮に、作家当人がいわゆる司令塔として機能出来ないとしたら、それでも森田さん自身が自由に絵を描ける環境や状況を、周囲がつくる事は実際にできるのだろうか。

森田さんの事実を何とか周囲が受け止め、踊りで翻訳して訴える事ができるか。その時、舞台上の森田さんがどう見えるのか。一歩踏み込んで手を差し伸べるうまい方法は何か見つけられるだろうか。森田さんと対話するための術はどういう方法になるのか。

この作品は主催者にとっても挑戦だと思う。もちろん、作家がこの状況を乗り越えてくれれば何より。これは私も信じたい。何かの結論までたどり着いてほしいと思う。

毎度の事ながら、作家と出演者ら作品制作者のコミュニケーション不全は、理由は異なるが起きている。つまるところは、「何を見せたいのか」という事を「どうしたら共有できるのか」。さらには、作家の見せたい事がメンバーの「やりたい事になってもらう」のには、途方もない事。

見せたい事が作家の心情だとすると、もう全部知ってもらう勢いである。

どう理解し合うか。どんな仕事でもまず「言葉」で話し合う。
この「言葉」が難しい。言葉のやり取りだけで心の底まで理解できるか。特に身体表現では、かなり高度だと思う。例えば “○○のような気持ちで” 動く。その気持ちに対応する身体の動きが表れるのは、これは日々の鍛錬である。

動きを指示出来たとしても、いろんな理解違いを通り過ぎるような事なのだろうか。

ニュアンスを絵で描いたとしてもそれは絵でしかない。または、言葉では「わかった」とも言えてしまう。
話し合って、その場は理解しあえたと思っていても、実際にやってみても実現できない。時間が迫り、どんどん焦る。

ダンス作品の制作はこのような精神的な作業がある。

どんなに長いつきあいでも、欲しい時にずれた答えが返ってくる、という事は作品制作に限らずよくある事。どう問いを投げれば、その答えが返ってくるか。これがコントロールできたらすごいが、そんな事できるのか。
面倒な上司とのコミュニケーション法、みたいな事なのか。しかし、作品制作だからどこまでゆずれるかで、揉める。

踊りに行くぜの作品は30分が目安。作品のベースに言葉があるならば、いったいどれくらいの言葉を並べる事ができるだろうか。かなり少ないかもしれない。言葉が最終的に少なくても、表現が強ければきっと作品になると思う。その辺りの潔さも必要なのだろう。