テキスト・写真:國府田典明

MESSY(菅原さちゑ作品)の稽古を11月下旬に見て来た。
あぁ、作品つくるって、地味だったなあ。これでいいのかわからない。けれど進める感じ。
久々に空気の重さを思い出した。タメ語の同世代のメンツでつくる感じ。

果たしてこれでうまくいくのかどうか。私には今のところ確信的な答えはない。
実際、結構キツい作業だと思うし、成果が見通せているか。

同じ状況といっていいかはわからないが、今私はAAPA(セカンドVol.1上演)の活動を休止している状態だ。稽古の進め方、考え方、思考を一度切り替える必要があると考えたからである。

緊張感だったり刺激があれば、発想や表現に磨きがかかるのは、おそらくそうで、
できる事ならそんな環境を取り入れる事があってもいいかもしれない。あからさまに異なるアーティストの創作に触れる(WSとかに参加とか)など。

完成した作品が何かしらの刺激を周囲に与えた時に、それが「伝わった」という事なのだろう。
稽古中に自分の感動状態があるか、これは一つのバロメーターだと思う。まず自分が感動しないと、他人も感動しにくいだろう。
感動でなくとも、自分なりに清々しさがある場合もある。やってやるという覚悟とか。
充足感、手応え、夢中になれているか、自分なりの勝算はあるか。
作品としての論理整理とともに、自分をこの状態へ持って行くための仕掛けも必要。
どうしたらワクワクするのか、というようなものかもしれない。

MESSYは再再演になるが、作品紹介の文字量が初回に比べて減ってきているのが興味深い。整理されてきたという事なのだろうか。

出演者の一人、緒方は九州に本拠を移していて、宿題を菅原から出しているという。
音にノリ過ぎて踊ってしまう、心地よく踊っている姿は見ていて良い事が多いが、
作品として意図されていないと問題だという事を伝えたようだ。

菅原自身も他作品の稽古でも120%やらなきゃもったいないと、最近思うようになったそうだ。

少なからず、別のプロジェクト「THE NOBEBO」の経験も活きてきているはず。
作品の「面白さ」にはサービス精神と作品理念のさじ加減のような事もあるだろう。

表現はクレバーだけでもない。どこか生き様が見えたらいいなあと思う(個人的な趣味)。それが出るためには、人生的な覚悟も必要なのだが。