報告するぜ!!
ダンスを言葉で語る 鼎談2
2016年01月11日

鼎談「ダンスと言葉」



飯名尚人
佐々木治己
水野立子

会場:未生文庫

2015年11月5日

<共同体の中のダンス・言葉>

い:その共同体の中だけで通じる言葉もあったんでしょうね。

さ:ある種の地域的な共同体のダンスが、一つの集落を超えどんどん大きくなっていく、最終的には国家レベルの共同体のダンスになっていくわけですよね。こうすると国家レベルのダンスって何なのかって考えます。その国家の目指している身体というか訓育、たとえば手が伸びやかになるとかキチンと歩けるとか、軍隊のように行進が出来るというような身体の作り方というものが、地域的な共同体のダンスから国造り的な共同体のダンスになっていくと僕は思っています。いわゆるネイション・ビルドですよね。

これともう一方で、水野さんが所属していた白虎社などのように、周縁的な共同体、マイノリティな共同体、ネイション・ビルドには属さない共同体、属さないという宣言の元に作られる共同体ですね。そこで作られるダンスはネイション・ビルドを元に作られるダンスとは異質なものになるわけですよね。だから意味があった。

雨乞いや税の取り立てなどの共同体のダンスがない代わりに、体操などが示すダンスは国家がやっているんじゃないでしょうか。規律訓練などが示す国造り的なダンスとは違うようなものは、伸びやかでキチンとした動き、ビシっとした美しさなんてものを根本から持っていないものや、拒絶するようなものが、国家とは違う共同体として現れるわけですよね。そういったものが反体制的な運動になることもありましたが、最早それもなくなっていますね。

一時、何も出来ない身体みたいなものが出たじゃないですか、遂行できない身体みたいなものが。それって僕はものすごい可能性を感じたんですけど、反発も感じたんですね。何もできないってことはやはり何もできないわけで、国家と戦うというとなんだか様子がおかしい人みたいに思われてしまいますが、ある種の強制力とでもいいましょうか、何を美しいと思うかってことで言っていますが、ビシっとしたものやキチンとしてものには合理的、機能的な美があります。その合理性、機能性と戦うために何もできないのは戦いにならないのではないか?というのもありました。やはり戦うには、別方向での強靭さが必要だとおもいましたが、何しない、できないということが、なんだか癒しみたいな感じで、結局は、幼稚といいますか、家でやってろ的なものになってしまったように思うんです。

み:それは60年代のこと?

さ:60年代もそうかもしれませんね。

み:日常的な所作、パンを食べてもダンスになるというフルクサスくらいの頃。

さ:フルクサスやアンフォルメルは、マニフェストなどがないと全く意味がないと思います。

い:一時期ありましたよね。座ってるだけとか。ダンスが演劇的といわれるようになった。パフォーマンスともまた違うものです。そういう時代は90年代くらいにもあったような気がします。

み:長く在りますね。テクニックの有無ではないダンスの定義というか、ダンスしているというのはどういうことか、という定義をつくった。表現の幅が広がったともいえるけれども、「踊」ファーストの頃は、コンセプトが強くはないけれど、ダンスしないダンスの価値が認められ注目を集めるようになった。実際にそれが新鮮で、ダンスを感じられるものもあったのは確かだけど、それが蔓延過多になり安易なダンスになっていってしまった時、「何だよそれ、何にもないじゃん」と、観客に見破られて、ダンスの観客が減ってしまった要因にもなったように思います。動かない体がなにもないわけではなく、そのことに必然がないまま、やってしまった、という弱さ。

い:演出上「動かない」っていう「コンセプト」のほうが先に来るわけですよね、おそらく。そうすると「何の為に動かないのか」って必死に考え出さないと正当化されない。動けなくなっちゃった、という身体がそこにあるんじゃなくて、動かない、わけですから。そのことを言語化していく作業が作り手側にも、その周辺の人々にも足りなかったんじゃないでしょうか。

さ:一つの重要な流れだとは思うんですよ。国家の美学としてのダンス、身体がありますよね。美しいことの基準を作るようなバレエなんかもそうだと思いますが、美の価値基準です。ビシっとした動き、キチンとした動き、のびやかで、機能的な身体。そういったものに対して、そうじゃないっていう人たちの力強い抵抗の身振りや誇大化された身体が出てくる。でもそれも出来ないということで、無力な、訓練されていない、または訓練を拒絶したような身体、ダンスが出てくる。これは魅力がなくなったというより、どちらかと言うと、何も出来ない身体というのがどこかに要請されていたんじゃないかと思うんですよね。そういう無力な、何もできない身体の方が好ましいと思う力というか、勢力のようなものがあるんじゃないかと考えたとき、バレエなどの強く伝統的な身体を国家の美学としたならば、何も出来ないというのもある種の国家の美学になっていったような気がするんです。そして、それが抵抗としてのダンスをやっていた人たちと同じ劇場や、同じ文脈で無力のダンスが抵抗として行われるんだけど、もう、なんだか違和感も覚えないんですよね、無力は。無力はもう十分浸透している。

い:それはあるでしょうね。徹底的に批判する構造が無いからある意味全部受け入れられちゃう。批判がないってことは、本来受け入れられているのかいないのかも不明ですから、無視されてるってことになっちゃう。

み:最初にそれが認められた、欲せられた時って発見だったわけで、意義があった。それが面白いって言うのは事実としてあったと思います。それが、コンセプトがなくても、ぬるくてもそれが出来るんだっていう誤解の元、だんだんと加速度的に、その表現方法が普通になってマンネリ化してしまった。

<アジールと公共>

さ:網野善彦なんかを読むと、アジールは公権力が介入できない場所として書かれてますよね。それを一つの抵抗の場としてどうしても考えてしまいます。公権力に対する戦いの場としてアジールという公権力が介入しない場所が必要だったと。しかし、アジールの中では、人殺しが行われたり、猛烈なヒエラルキーがあるわけですよね。国家対アジールっていう図式自体が成り立たないんじゃないかと思うんです。アジールの中のマイノリティやアジールの中の周縁的な人がいるんですよね。その人たちがアジールの中で抵抗をするんじゃないですか。マッチョ的アジールから逃げたいと。それが無力の表出だったと思う。でもそれはアジールの中でしかやれないから、アジールの劇場を使い、アジールが掴んだ利権を使い、アジールが作った媒体を使うしかできなかったんだと思います。無力だから。で、どうなるかというとアジール的な場所はマッチョ的な力がないと継続できない。アジール自体は内にも外にも常に戦うことでしか存続できないから、戦えないというのから始めちゃうと先細りになっていく。もうアジールから逃げていくしかない。

い:アジールからも逃げて、一体どこに行くんです?

さ:アジールから縁切りして、公共というところに逃げたくなる。以前、佐藤信さんがあるシンポジウムで「日本において公共という場所はない。基本的にあるのはプライベートとオフィシャルなんだ」と、<官>と<私>しかないと言ったときに、アジールからの逃亡というのはごくごくプライベートな個人の話になるかもしれない、どんな力を持ってるか分からないFace book やTwitter を公共だと信じるようになるんじゃないかと思ったんですね。誰もがやれるし、でもそれが何かの場になるような言説はあるけれども、実際にそれが日本でなるかというと分からない。

み:本当の目指す公共を作りたいなっていう意味?

さ:公共を僕が作りたいというより、アジールからの逃亡が公共というものを作り始めてるんじゃないかっていう。その公共が良いかどうかは分からない。

<つい考えてしまうこと。芸術の公共性>

い:助成金制度はそういう風な考えに繋がっていくんじゃないですか。財団や国が芸術活動に対してやっていく公共事業のひとつとして。

さ:公共的な場所って戦いがしづらいというかマネージメント、管理が強くなるんで、例えば、そこで煮炊きしちゃいけないとか、いろんな制約が公の劇場はありますよね。24時間占拠とかまずしちゃいけないわけですよね。その公共的な場所はマネージメントが当たり前になっている。管理の優先順位が高い。本来アジールとかだったら管理っていうのは優先順位としては高くない。逆にアジールで管理管理みたいなことを言うやつは叩かれちゃうわけですよね。アジールの中では殺人すら辞さないということもありますが、公共において殺人は辞さないというのは完全にありませんよね。憲法によれば公の福祉に反する場合は個人の権利も制限されるわけですから。それは公共だからその中のルールでちゃんとやろうということで、ルールがどんどん細密化される。ロビーで弁当食べるなと言われたという話を聞いたことありますが、そんなことを言ったら殴られるかもしれない、しかし言ってやろう、殴ってきたら殴り返してやるってことじゃなくて、たぶん、殴られるなんて思ってないんでしょうね、公共にどっぷり浸かっていると。法を守るのが前提だと思っているからなんでしょうけど、法は何々するな、じゃないです。何々したら罰するってだけじゃないか、って、話がずれました。

い:公共というポジションになった途端、独裁的な発言って凄く嫌われる。アジールの中の世界では、本来は独裁がいないと守れないはずなんだけど。今の日本の縮図じゃない?

さ:ダンスから話は外れては来ちゃいましたけれど、最近、何かやろうと思うと、こういうなんだか妙な流れを感じていますね。

い:つい、そういうことを考えちゃいますよね。今それを何のために作るんだって問われるじゃない?この作品はいったい何なんだろうって。だから、ついそういうことを考えちゃう。邪念ですね。