報告するぜ!!
ダンスを言葉で語る 鼎談1
2015年12月31日

鼎談「ダンスと言葉」

その1 雑談を繰り返していく

飯名尚人
佐々木治己
水野立子

会場:未生文庫

2015年11月5日

<今年の「報告するぜ!!」は、こんな風にやってみようかな、と考えています>


水野立子 (以下、み):今回の鼎談のタイトルは「ダンスと言葉」でしたね?

飯名尚人(以下、い):そうです。まず1つ目に、ダンス作品を作るときに言葉というものが、どう使われているのか、どう機能しているのか。「言葉はいらない」って言う人もいる。「言葉じゃないんだ」って言う人も勿論いる。ダンスは言葉じゃない、っていうことは、もちろん誰にでも分かりますが、でもやっぱり言葉って使いますよね。挨拶もするし、雑談もするし、当然リハーサル中の指示も言葉で出す。ダンス作品に言葉がどう介入するのか、という意味での「ダンスと言葉」。もう1つは「報告するぜ!!」という企画を改めて考えてみると、ダンスを外側のメディアからどういう風に語るのか、という機能、役割がありますね。批評、評論、分析。そういうのはやはり言葉によってなし得ている。それで、今年の「報告するぜ!!」は、ダンスというものについて、外部から言葉によって関わっていこうじゃないか、というアプローチをしていきたい。

み:昨年度の「踊2」参加作品Aプログラムの3つの作品について、飯名さんと対談形式で語ったのを「報告するぜ!!」に掲載しましたね。あれは、もちろん最終の東京公演の前パブ的な役割もあったけど、“ダンス作品について語る”ということを意識的にやってみようという目論みと、なぜ“ダンスなのか?ダンスでなければいけないのか?”というところを昨年の3つの作品を通して、私自身が迫りたかったということもありました。昨年は言葉が重要な役割を持っている作品が重なったこともありましたので。それと、ダンス作品について語る、という行為がとても少なくってきている気がしています。「良かったよ~。」とか、「キレイだったよ。」とか、ダンスのムーブメントやテクニックについてだけに言及しがちで、作品自体のメッセージや、作品から感じたり、考えたことについて話が展開していくことがあまりなくて、なんか淋しいなあ、と。

い:いろいろな人たちと、ダンスについて、言葉について、雑談を繰り返していくという作業が必要ですよね。必ずしも専門的なことではなく、どちらかというと純粋に感じたこととか、感覚的なことも言い合ってみるという作業になると、面白いかもしれません。「自分はこう思った」という純粋な作業です。でも、心で思ったことを、きちんと相手に通じるように言語化するって、なかなか大変なんですよね。

<言葉が先か、イメージが先か。雨乞いのダンス>

み: ダンスで表現することは、言葉では説明できない領域、ダンスでしかできない表現だから、ということになりますが、そこに完全に言葉が不在になるということでもないし、それだと、アートというよりただの運動になってしまう。
「ダンスと言葉」と聞いて最初に思ったことは、ダンスと言葉はどっちが先に在るのかという事。ダンスを単にヒトの体と例えると、生まれた時にまず体が在り、赤ちゃんは言語を持たず、言葉は存在の後にやってくる。これは作品を作るときも似たようなことで、まずはイメージだけの段階では、言葉にはまだなっていない思考みたいなものがぼんやりある。自分が何を求めるのか突き詰めていくと、やっぱり言葉というものが重要で必要になってくる。考えやイメージが言葉によって具体化していくと思うんですね。体と言葉の先を突き詰めていくと完全なる言葉の世界になるのかな、と思ったんです。だからこそ逆に、ダンスにしか出来ない表現、言葉で説明できない領域があると思います。つまり、言葉と体、ダンスと言葉というものは必ず対になっていて、切り離せないものなのではないかな。

佐々木治己(以下、さ):舞台芸術と大きく考えていくと、言葉を使わなければダンスってことでもないと思いますが、自分で何をしているのか分からないし、言葉にできないことを「表現」しているから、ダンスだって開き直って、悪く言うと、どうとでもとれるからダンスってことにしちゃえってのがあると思います。では、言葉って何かというと、お互いに了解し合える方法として一種の道具として何かを伝えるために言葉がありますよね。そうなると、分かり易いものを伝えるのも言葉だし、難しいことを探求するようにするのも言葉だと思うんです。
たまに思うのが、ダンスって答えがない、伝えることができない、という答えを最初から前に出しすぎているように思えるんですよね。言葉にできない、というよりも、言葉にする気もない。もちろん、先ほど私が言ったように、言葉にする、お互いに了解できる方法を拒絶するというのは一つのヒントといいますか、大事なことだと思いますが、そういったこと以前の段階でダンスを選んでいるような気がするんですよね。なんとなくダンスをしている、というような。

み:そうかもしれないですね。原始的な太古のアニミズムや儀式祭事で、音楽とダンスが切り離せない身体の表現になっていたことはあったと思うんですよ。

さ:歌舞音曲や儀式のなかの踊りって言うのは意味があるわけですよね。「雨乞いのダンスをしよう」って言ったら、それは雨を降らすための踊りなんですよね。しかし、雨が降らなかったらどうなるのかというのはあるわけですよね。

み:でも、その雨乞いのダンスを振付けたわけじゃないでしょ。

さ:振付もあると思いますよ。順番や方角など様々なことがあると思います。

み:それはあると思うけど、もともとは一対だったんじゃないですか。身体とその想いみたいなところが。今年の夏、沖縄の宮古島でクイチャーという芸能の踊りを知りました。いろんな成り立ち説があって、人頭税という非道な税の取り立てに耐えるため皆で歌い踊ったという話や、この税から解放されたときの喜びの踊りだとも、雨乞いの踊りとも言われているものです。その全部が正解なんだと思います。いまも現存していて、人が集まってお酒を飲んでは、必ずクイチャーを踊り歌います。沖縄では自然と神の存在が普通に生活にあるので、このような原初的な踊りが当たり前。都心の生活とは程遠いです。

さ:雨が降ったときのダンスは重視されるんじゃないですか?

い:振付らしきものはあったんじゃないかと思うんですよね。雨降らせたいわけなんで、やはり天を仰ぐ動きは入りますよね。こうやると怖い踊りになるとか、足をこうやって下ろす、とか、そういう決まりは伝承されているはずですよね。じゃないと、突然新しい踊りが登場してきちゃったりして、その時の踊り手の自由度が高過ぎちゃう。この間の目黒庭園美術館で開催してた「マスク展」を見に行ったら、民族博物館の方がキュレーターで、あそこのキュレーターの人たちって凄い現実的なの。アフリカの古いマスクとかコスチュームを見ると僕らはつい芸術的な側面を見てしまう。ところがキュレーターは全然そうじゃない。お祭りに政治結社がこういう格好して踊ることによって、怖がらせて税金を取り立てるんだ、って書いあるんですよ、キャプションに。そうすると踊りの意味っていうのは、村人に対して怖がらせる、っていう目的があるから、おそらく怖い感じの踊りをするんだろうと思うんですね。

さ:共同体の中での役割ですよね。

い:はい、単にビジュアル的なことで民族舞踊や儀式が出来てるんじゃなくて、共同体の中の機能を担っているんだと思ったんです。これはもっと毛むくじゃらにしないと怖がらないんじゃないかとか、火の神様なんだから赤なんじゃないか、とか、そういう議論があったんじゃないかな。もっと手を上げたほうが神様っぽいんじゃない?とか。そういうのがくり返されてきたのかもしれない。僕の想像だけど。映像があるわけじゃないから調べようが無いんだけども。

さ:「楚辭」で有名な屈原の詩に、巫の身に降りた神を楽しませる。というのがありますが、その詩では、巫が舞い、それに応じながら詩をのせ、歌舞と音楽が合っていくと神が喜ぶ。というような詩があるんですね。随分前に読んだ詩ですが、神が巫に降りて舞うんですね。つまり舞って喜んでいるのかもしれませんが、舞っている神を見て喜んでいる人がいる、そして喜んでいる人を見て神は喜んでいる。この詩は、歌舞音曲とは、喜んでいる人を見て喜ぶ神がいる、ということじゃあないかと思ったんですね。まあ、調和の美について言っているのかもしれませんが。

い:すごい。それはいつの話ですか?

さ:私の誤読かもしれませんけど。屈原は紀元前300年とかだったと思います。

い:その時代からも、観客ということが多面的に考えられているんですね。今、「踊2」や色んなフェスティバルにしても、結局そういうところが求められてるんでしょうね。いい作品を発表する、ということだけでなく、それを見る観客を見る、という視点。プロデューサー的な視点ですね。

さ:実際のダンスを観る人は限られていますよね。客席の構造によっては何万人と観ることができるかもしれませんが、基本的にはライブで観られる人は限られていますから、飯名さんが仰っているような、共同体において、フェスティバルなどイベント化されたものがあることが、形式としても、それ自体の重要性というものがあったと思います。ダンスや歌舞音曲が重要視され、目的になっていった。そういったものの一つとして税金の取立てであったり、雨乞いなどの実際に税金が取り立て垂れるようになるか、雨が降るのかという実用から離れ、どんどんと形式化されていく。それ自体が現していく共同体性が非常に重要だったと。