報告するぜ!!
- 2014年12月4日
- 今の時代に“舞踏家”を名乗るということ。
テキスト:水野立子 (2014年12月2日)
初取材は、Aプログラム 目黑大路『ナレノハテ』から。
11月20日森下スタジオにメンバー3名(目黑大路、佐々木治巳、中西レモン)の稽古の様子を見に行き、翌日、まだメンバーが集まる前のスタジオで、ウォームアップ中の目黑さんに話を伺った。
<体・からだ>へのこだわり。
目黑大路さんとの関わりは、意外に長い。
初めて会ったのは、2006年岡山でのKo & Edge代表作、室伏鴻・作“死体は踊る”『DEAD 1+』の途中経過発表だった。ジミヘンの爆音の中、銀塗りの男3名が逆立ちで天に向かって延々に突っ立っている。なんだろう。絶望と解放が共存しているような、あの衝撃的なシーンの記憶が蘇る。体の暴力性と幸福を同時に感じる瞬間。目黑さんはその逆立ちしていた舞踏手の一人だった。2006-7年『DEAD 1+』で、「踊りに行くぜ!!」国内・アジア14都市を一緒に回った。
その2年後の2009年、目黑さん自身の作・出演のソロ作品『この物体』で再び関わりを持った。とてもシンプルな動きの連続だが重層的で雄弁な体が立ち上がってくる踊り。
(2008年「この物体」)
また、「報告するぜ!!」の取材陣の飯名尚人さんが、監督として2009年「踊りにいくぜ!!」前橋のこころみで、「この物体」をビデオダンス作品として制作してくれた。
“体/からだ”の存在が強烈で、削ぎ落とされた体が衣裳のようにもみえる。そう、目黑さんは徹底的に体に執着し、こだわっているアーティスト。
今回5年ぶりに、そして初めて、新作『ナレノハテ』を制作するところから、目黑作品と関わることになる。”ナレノハテ”という響きは、幸せそうでもあり、哀しそうでもある。はてさて、目黑さんのこの新作でこだわりの体へのアプローチとは、どんなものになるのだろう。
先月『ナレノハテ』を制作中の森下スタジオに見学に行ったときの印象―まず驚いたのは、これがダンスの稽古か、と思うほど饒舌な稽古場。活気に満ちている。作品のコンセプトやテーマを洗い出す材料やアイデアを言葉や絵、記号にして書きだした模造紙が、処狭しと壁一面を覆う。そういえば目黑さんと、テキスト・出演の佐々木治克さんはアスベスト館で出会ったそうだ。そうか、これは舞踏の稽古場の匂いとも言えるのか。それに加えて驚いたのは、佐々木さんがしゃべる、しゃべる、しゃべる。出演も兼ねている佐々木さんに目黑さんが、「じゃあ1回やってみようか」と笑いながら促し、体を動かす稽古が始まっても、まだしゃべる。というより、しゃべりながら動く、というのが正しい描写。舞踏の稽古だったら、「うるせー、このヤロー!」と演出家から灰皿が飛んできてもおかしくない状況だが(笑)、目黑さんは笑いながら観ている。私は吹き出しそうになるのをこらえていた。一方、画家でありパフォーマーである中西レモンさんは、小道具と寡黙に向き合っていた。滅多に会うことができないような人間放れした飄々とした感じ、オモシロイ。
此処には、三人三様の体の質感が在る。
どういうダンス作品をつくりたいか?
聞けば目黑さんは「このメンバーで作品をつくってみたかった」と。が、いわゆる“ダンサー”の訓練をしてきているのは、目黑さん自身だけ。では目黑さんにとって、どういうダンスが目指すべき“ダンス”なのだろうか。聞いてみると淀みのない答えが返ってきた。
「現代社会の体とはどういうものなのか、というところですね。あとは、出ている人がいかに魅力的に見えるか、ということをテーマと共にやっていきたいと思っています。だから作品によっては、アウトプットは何でもいい、体を使わなくてもいいと思っているんです。
例えば、この前の作品「i²=-1」は、虚数を題材に取り上げました。虚数は、昔は数として認められていなかった、無駄なものだったんですね。それが無益な体というテーマと合致しているな、と思って。出演者が4人で、その一人が年配の女性。座ったまま、テーマに沿った話をお客さんにして、ポージングしてもらっただけで、いわゆる踊りとは違うものでした。」
目黑作品の根底には、“無益な体の探求”があるようだ。無益、無駄、存在する価値がない、何も生まない、ただ在る。否定とも肯定ともとれるけれど、どっちでもないものなのか。それを目指したいのか。とどのつまりは「無」になるのかもしれない。確かに、これを舞台で表現しなさい、となるとなんだかおかしなことになってくるだろう。目黑さん自身は稽古熱心ではあるけれど、舞台では技巧をこらしたダンスを披露しているのを観た記憶がないし、出演者にもダンシーなシーンをつくらない。
「踊れる人に出演してもらう時は、きれいな踊りというよりは動きの延長線でやってほしいので、動き以上ダンス未満みたいなことになりますね。舞台であんまり踊れる人をみても面白いなとは思わないんですよ。自分も練習では、踊ってますよ。けど本番でやると動く身体がなじみ過ぎて、それを舞台にあげても面白くないんじゃないかなって。そういうのを見ても魅力的に思わないんですよね、だから自分の表現がダンスって言われると非常に微妙ですね。自分でダンスって言ってるから、ダンスなんでしょうけど。それよりも興味は体のほうが強いですね。」
自分がやっているテーマがすごく舞踏だと感じる。
― その考えと関係あるのかどうかですが、ダンサーではなくて舞踏家と名乗っているのは何故ですか?
「それは、自分がやっているテーマがすごく舞踏だと感じるからです。土方さんがやっていたことは踊りに社会性を含んでいましたよね。社会の中の体とは何かを問うたとき、衰弱体にしろ、ああいうはずれたものをボンともってくるのは面白いなと思いますね。いわゆる価値の転倒という点が面白いと思う。そういうことに惹かれているんでしょうかね。」
なるほど、この話を聞くと今の時代の舞踏家らしさを感じてしまう。2世代目までの舞踏家は、概ね“身体・肉体・からだ”の在り方についてまず語り出すように思う。西洋のダンスとの違いについて、腰が低いこと、日本人の精神について、etc. 目黑さんの自由さは、舞踏未経験者だろうと、西洋のダンスの研鑚を積んできた人だろうが、そんなことは舞踏かそうでないかの基準にはなっていないのだろう。今の同時代の世で生きる“からだ”は、どういうところに行き着くのか?そこに着眼し続けることが、目黒さんにとっての舞踏である、ということになるのかもしれない。
その上で、今回の『ナレノハテ』では、どのあたりの“成れの果て”の話になるのだろうか。肉体の成れの果ては「死」とも言い替えられるわけで、現段階でこの作品をどのように見せたいというのは定まっているのだろうか?
「こないだ岡山で『ビル』っていう作品をつくりました。あれも成れの果てですね。『ビル』のチラシに書いたテクストの中で、「薄い皮」っていっているのが体、死体で、その体が積み重なって、その上に私たちの生があるわけです。生は死の上に立っている。でもそれが何なのかっていうことですね。良くなろう、良くなろうと、今も正により良き生を求めている。けど、人間の本質はそこまで変わるわけではなかったり、常に同じ事を繰り返すだけだったり。生は意味があることだと思ってるけど、私たちが意味を付けたいだけで、生、自体に意味はない。そういったことがフッと作品中に見えればいいな、と思っています。」
身体を人前にさらすということ。これは、本当は毎日でもやりたいこと。
― 最近の目黑さんが見たものでいいなと思ったもの何かある?舞台とか。
「この作品の参考資料として観たんですけど、少し前のドキュメンタリー映画で『いのちの食べ方』は面白かったですね。作物とか、豚とか牛とか、どう作られているのかをただ淡々とドキュメントで流していて、演出方法もいいんですよね。過剰な音楽流したりしないし、こっちに想像の余地がある。これはすごく良かったですね。」
- 養豚とかの屠殺シーンがあるんですか?
「そう、やっぱきついですけど、そういうのも見たほうがいいなと思って。『いのちの食べ方』をみていると感覚が麻痺してくるんですよね。屠殺されて吊られている豚の体とかみて、「ほー、面白いなぁ。」って。アレは面白かったですね。今回の作品にも取り入れているところがあります。
鳥取に移住して2年になるんですけど、静けさと自然と身体に良いものは沢山あるけど、本来、見たり聞いたりが好きなので、インプットしようとしても刺激がない。舞台もそうそうないですしね。モノをつくるのに物足りなさを感じていて、やっぱり都会に移住したいな、という気持ちもあります。ただ、引っ越すのは簡単なんですが、いま、週1のレギュラーで近隣の温泉地のショーに出演していて、それを続けたいので、なかなか引っ越せないんですよね。」
私はまだこの目黒さんのショーを観に行けていないが、男性のショーなのに相当色っぽいらしい。
ショーといえば、舞踏とは縁が深い。90年代初頃まで、舞踏ではキャバレー廻りというのが日常的にあった。全国津々浦々、場末のキャバレーから大都会のステージまで、公演がない日は、ほぼ365日どこかのステージに立つのが当たり前のことだった。
踊り子に課せられた使命は、お客の目の玉を隣のホステスさんからステージに注目させること、誰もみていない客席を振り向かせて、拍手をもらって帰ってこないといけない。“私のキャバレーをつくりなさい”という修行の場であった。しかも、ショーの売上は舞踏集団の大事な収入源。修行=売上。土方巽がつくったすごいシステムだ。それを考えると、今のコンテンポラリーダンサーは、人前に立つ機会が年に何回あるのだろう。人前に体をさらすということ、さらされることを積み重ねることは、舞台人としてやはり大きいことなんだと思う。
「今、5月から毎週やっているんですが、やっぱり舞台の感覚が変わってくるんですね。出演することへの良い諦めがあったり。そういうものは年に1-2回舞台をやるだけじゃ無理ですね。フィリピンに行った時、ストリップみたいなところでやっていたお姉さんのパフォーマンスはかっこよかったですよ。一人だけね。生き様がね。他の子はタラーっとやっていくんですけど、彼女だけはひとを巻き込んでいく凄いパワーがあった。パーンっていうカッコよさ。私が温泉でショーをやろうと思ったのはその影響が強いですね。こういうこと(舞台)やっていると何処か芸術に保護されてるじゃないですか。だけど、本来、踊りは芸術ってものなんじゃなくて、踊り子兼娼婦じゃないですか。生き様が圧倒的に違いますよ。人の生き様がやっぱり、舞台に現れてくるのだろうと思います。」
無益性と舞踏
普段の目黑さんの歩き方は、僧侶みたいだなと思う。舞踏家は、気配を消すのが得意でハッと気が付くと音もなく後ろに立っていたりする。目黒さんもふっと突然現れる。今回の作品に限らずテーマは違えど、体の究極―生死のこだわりが見え隠れする。無益や無の追求。ただ、そうは言ってもまだ30代の目黒さん。相当動ける身体能力をもっているダンサーでもあるわけで、自己の欲望と作者としての作品の指向性は合致しているのだろうか。そのあたりの本音を聞いてみたい。
―目黑さんの歩き方、僧侶みたいですね?
「え?そうですか。仏教の考え方は面白いなと思いますよね。布教するためとか、極楽に行けますよ、とか言われると嫌ですけど。」
― 今生きている自分の身体はこう在りたいっていうのは?
「あんまり吹っ切れてない部分があって、いずれ動けなくなるから、今、動いておきたいという欲求があります。求めているところと、ズレているところがあるんですけどね。舞踏を始めてから、体のことをよく考えるようになって、そこからですね「生」「死」を意識するようになったのは。けど、欲だらけですよ、私は。欲だらけで無益をやってる(笑)。」
最後に、今の時代は舞踏の力が低いと言われて久しい。それでも舞踏家を名乗っていくことについて聞いてみた。
「そうだな、と思っています。やる側が模倣していただけなんですよね。こちらの責任が大きいと思う。これが舞踏です、ってこちらの考えや体を出していけなかった。土方さんみたいな強烈な人も出てきませんし。自分にとっての舞踏とは、<無益性>です。上手く立ち回れない体だったり、排除された体だったり、というのは時代が変わってもあるものですよね。でも、最近はそんな体を見えないようにして、あるいは見えないふりをしていて怖いですけどね。
舞踏家を名乗っていくことについては、これといって強いこだわりはないですけど、舞踏の体へのアプローチやテーマがしっくりくるから、そう言っています。」
「踊2」に、舞踏家を名乗るアーティストが参加して、こんなに舞踏について聞く機会があるとは想像したこともなかった。“舞踏”というワードは、創生されてから55年経った今、正と負、両方の印象を持つ一つのジャンルとなったのだろう。今回のこの『ナレノハテ』は、記念すべき「踊2」の舞踏作品第1号となる。大したことじゃないけど、大したことかもしれない。