報告するぜ!!
八戸公演レポート(2月7日/八戸市公民館)
2016年03月01日

文・飯名尚人


八戸市は、このところダンスを中心としたアートプロジェクトが活発である。
全国からいろいろな振付家・ダンサーが招聘され、市民とのコラボレーションがデザインされてきた。八戸は、音楽文化も盛んで、小さな町だけど、ライブハウスが沢山ある。地元のミュージシャンとダンスのセッション「DANCE×JAZZ」や、ダンスと映画を組み合わせた記憶と記録のプロジェクトなど、様々である。花火を打ち上げるような派手な芸術イベントではなく、地元のアーティストによる継続可能な芸術活動が面白い。東京では見られないような肌触りのモノがそこにはあるからだ。そういう肌触りを求めて、都心を離れ、地方都市に移住するアーティストも増えているようだし、八戸の取り組みをみるとその理由も分かる。それらのアートイベントを仕掛けているのが、大澤苑美さんである。詳しい八戸のことは、大澤苑美さんの「八戸レポート」http://odori2.jcdn.org/6/?p=2521 を是非読んでください。


「コンテンポラリーダンス」という言葉はなかなか広まらない。「コンテンポラリーダンスってどういうダンスなんですか?」と聞かれることもまだ多い。しかし「コンテンポラリー」というこだわりももはや時代遅れなのかもしれない。山崎広太さんのインタビュー(http://odori2.jcdn.org/6/?p=1698)をしたとき、山崎さんが「コンテンポラリーダンスの次は、ポストダンス、ということを提示しているアーティストも出て来た」と言っていた。「ポストダンス」とは「次のダンス」と訳せばいいのか。ダンスというものが、これまで思ってきたダンスでは無くなってくることかもしれない。空間のダンス、時間のダンス、人生のダンス、、、そのことを受け入れられないと、いつまでたっても昔話をしていることになってしまう。昔はよかった、、、うーん、そうなのかな?ホントに昔は良かったのかな?と、僕はいつもモヤモヤとなる。そういえば、ポドロフスキー監督の幼少時代を描いた映画作品は「現実の中でダンスする」(『リアリティーのダンス』)というタイトルであり、つまり彼の人生そのものがダンスしている、もしくは、生きるというのは人生においてダンスしてるみたいなものだ、ということなのか。ダンスというのは、そういうことかもしれない。

八戸では3作品が上演された。

Aプログラム:梅田宏明
Bプログラム:岩岡 傑
再演:目黑大路

公演の写真がこちらに掲載されています。
https://www.flickr.com/photos/106107123@N02/sets/72157664524235375/

再演となった目黑大路『ナレノハテ』(前回の踊りに行くぜ!! VOL5で上演された)は、「人生はダンスである」とも言える作品である。なんでも途中で辞めてしまう「怠惰」という話題から、舞台上での行為が嘘なのか本当なのかを言葉によってまくしたて、あっけなく死んでしまう。もちろん、舞台上の死は、嘘の死である、と彼ら自身が言ってしまう。死に損ないのようにもがく目黑大路の踊りは、どこか切なく、足をもがれた蟻がジタバタするような残酷でありながらポエジーのある踊りとなる。しかしそこにも希望がある。中西レモンが謡い上げるのは佐々木治己の自作の詩で、「その国には愛も自由もない」と説くが、「愛のために自由を奪うものがあれば、自分はその逆のことをするのだ」と観客に宣言する。「そんな程度の愛や自由なら俺にはいらないよ」と聞こえてくる。この作品が「ダンス作品か否か」という議論はナンセンスかもしれない。リアリティーのダンス、という世界がそこにはあるからだ。


梅田宏明『Movement Research – Phase』は、僕なりに解説するならば「雨粒が空間を漂う規則性」と「人間の踊り」を同じレベルに置いて、人間も自然の一部なのだ、という自然回帰とも言えるダンス作品である。人間が自然の一部である、と芸術表現において挑むとき、例えば「太陽の恵み」「緑の大切さ」「動植物との共存」、、、といった人間目線のナラティブな解釈において作品が創造されるだろう。時にそれは教条的な意図に成り代わり、芸術表現とは素晴らしいものだと盲信させる。梅田宏明は、そういった既存のヒューマニズムから一線を画す。離れようとする。喜怒哀楽に溺れることを許さない。自然とはそういう厳しさのことなのだとも思う。雨が降ってるから哀しい、なんてことは、人間が勝手に思っているだけのことだ、というのは正しい。だからダンスも自然に近づくために、喜怒哀楽から逃れてみようじゃないか、という実験にも見える。人間も自然の一部なら、感情ではなく、人間なるものを構成する細胞にダンスさせよう、ということではないか。ふと荒川修作を思い出す。ノーベル賞を受賞した利根川進に向かって「君はまだ人が死ぬだなんて、考えているのか?人は、死なないんだよ」とけしかける。人は死なない。確かにそうかもしれない。人を個人として考えれば、ある人の死で哀しみに暮れることもある。しかし、人を自然の一部と考えれば、人の死は悲しいとかそういうことではない。それは非常にドライでクールな見解だと思われることも多いけれど、僕はその考え方が好きである。
無秩序の秩序、というのは自然科学の領域だろうか、雨の一粒一粒はどんな規則で降っているのだろうか、ああみえて規則がないわけがないだろう。木の葉が風に巻かれて舞うときに、葉の動きにどんな規則があるだろうか。人間はあんな風に群舞できるだろうか。できないはずがないだろう。花は自分が美しいと思って咲いているのだろうか。自然のルールを人自身も作れるだろうか。しかも人間目線ではなく。デジタルの究極はアナログである。ぽつんとした空間の中で4つの「人」という個体が踊る。そういう作品である。

梅田宏明『Movement Research – Phase』の作品解説は、こちらへ。

http://odori2.jcdn.org/6/?p=2464

梅田宏明インタビュー
http://odori2.jcdn.org/6/?p=1655

Bプログラム岩岡 傑『けっ!』は、不思議なエネルギーが出たパフォーマンス作品となった。

クリエイション・ドキュメントが面白い。かなり大変なクリエイションだったようだ。
http://odori2.jcdn.org/6/?category_name=documentary/doc-hachinohe

上演された作品は、執拗に繰り返される音楽と映像。誰かの部屋のような空間、あるいは岩岡 傑の脳味噌の中のような空間に、そこに漂う何もかものカオスを吸い取る掃除機を愛する女と、問題だらけの世界に「問題ない」と書かれた白いジャンパーを着た男2人。男の見た夢の話が方言で語られ、爆発?雲?煙が空間を漂い、民衆(地元の高校生たち)が盆踊りのようにちゃぶ台の周りを踊る・・・。この説明ではイマイチ伝わらないのだか、なにしろ説明のしにくいことばかりやっている。一体これは何だろうかと考えるヒマもなく、次から次へと何かが起こる。こちらが用意している感情を無視して進んでいく。ところがなぜかポップさがある。不思議なうねりの作品であった。
この作品もまた純粋なダンス作品とは言いがたいのだが、インスタレーション&パフォーマンスとして観ると、映像、空間、ダンス、言葉が、まったく脈略の見えない連結で提示され、しかし、そこに脈略がないわけではない。空間デザインは完成されていて、映像もまた岩岡本人による編集によって、独特の時間軸が組まれている。岩岡は、アムステルダムでパフォーマンスやインスタレーションを行っている作家であり、ソロ作品を中心に活動している。そのため、今回はパフォーマー3名を使った演出にかなり苦戦したようだ。振付に磯島未来がついたことで、舞台芸術として作品を高める作業ができたようだ。演出家が空間デザインを決め、その中でパフォーマーが自由にやっていい、という演出を組んだとき、パフォーマーの負担はとても大きいだろう。「好きにやれと言われても、何をしていいのか、、、」となるのは当然。本当に好きなことだけやってれば成立するのだろうか、、、ともなる。スタッフ、出演者は岩岡の創作スタンスにかなり戸惑ったようだ。本番ギリギリまで戸惑っていたように思う。「この人は何をしたいのか、、、」。作品の途中、映像が流れる。レストランの看板の映像なのだが、数回出てくる。その映像はやたらと長く再生される。岩岡に「あれは何か?」と聞くと、「あれ、いいでしょ、あの長さじゃないとダメなんです、あれがあって成立するんですよ、ああじゃないとダメなんです」と彼は力説してみせた。岩岡の中で成立している美的構成は確実にあって、それを出演者、スタッフがどう読み取るか、ということになる。とはいえ、この人が昨晩どんな夢を見たか、、、そんなようなことを想像しろといわれても、なかなか難しい。しかしそれを想像してくれ、と作者に言われた出演者たちは、どういうスタンスでクリエイションに参加すべきだろうか。非効率的な作業を好む演出家は多い。効率的に分かりやすく誘導する演出家はスタッフには好まれるけれど、実際そうは効率的にはいかない。作品を作るというのは、効率の善し悪しではないのは誰しもが分かっていることだ。僕は、非効率的な人、費用対効果の悪い人、をみるのが好きで、つい面白がってしまうけれども、とはいっても、クリエイションの現場になると「おい、こら、そろそろ構成くらい決めやがれ」と怒ることもある。こういう怒りも僕の中では重要で、どこかで怒るポイントを待ってるときもある。八戸Bプログラムのクリエイションも、みんなが演出家に対して怒りを持っていた。ところがそういう作品は本番に強い。怒り、というエネルギーは、自分でも制御できないものがアウトプットされる。前日のリハーサルで通したときのエネルギーがとても良かった。本番は少し怒りが落ち着いてしまったのかもしれない。

八戸市はダンスを中心としたアートプロジェクトが多い、と冒頭に書いた。八戸では、これからもヨソのモノマネではなく、独自の実験的な企画をやっていってほしいと思う。独自の企画というのは、世の風潮に左右されずに生き残る。物心がついた頃からある町の喫茶店のようなアートプロジェクトを求めている人は多いはず。陰ながら応援中。