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2015年3月13日
ネタバレ注意!! 感想トーク 川口智子作品『#1 天使ソナタ』編

写真:一楽

飯名:次は川口智子『#1 天使ソナタ』。

水野:飯名さんは本番どこで見たの?

飯名:福岡公演。辻田暁のダンスが面白いですよね。ああいう一見可愛らしい、少女のような感じの子が、すごいマッチョな事やるんですよ。

水野:各地の反応でよく聞こえてくるのは、辻田さんのダンスは何か異様にリアリティがある、ということ。体が雄弁だなあ、って。

飯名:同時に寓話的な要素も持ってて、興味深いダンサーです。芝居も出来て、踊りも出来て。

水野:ダンスを幼い頃から始め、大学で演劇を学んだそうですね。

飯名:踊りがいわゆる習い事のダンスではないから、普段どんな訓練しているのかなって思って聞いてみたら、「アスリートの訓練をしてる」って言うんですよ。彼女のダンスは瞬発力がスゴい。立つならいきなり立つし、倒れるときもいきなり倒れる。潔い。余計な装飾的なダンスはしない。そこがカッコイイし、なぜか色気も生まれる。あれは彼女の芸ですね。

水野:よくチーズ持ち歩いて食べていますよ、アスリートみたいに(笑)。クラシックを長く習っていたと聞いて驚きましたね。習い事風になりがちなのに、自分のダンスをリアリティを持って解読して踊る術を身につけている。「どこでそれを習得したの?」って聞いたら、自分でも自覚がない、って言ってましたよ。どこでしょうかねぇって。

飯名:彼女は人の作品に出ていても、あの人のリアリティというものがあるんですよ。

水野:自分で自分のダンスをそこまで昇華していくんでしょうね、演出家のオーダーとか、今、何が求められているのかを汲み取って。私がこのチームが面白いな、と思うのは、制作方法。最小の3人のメンバー、演出×ダンス×音楽のチーム内で、一切相談とかしていないようだし、具体的な演出家からの指示もないし。始めの頃、様子を見ていて、一体どうなっているのかなって不安になりましたよ(笑)。川口智子が書いた台本は、ダンサー辻田暁の体から書き起こしていると言うけど、あれだけ抽象的な事を振付家と音楽家に、さあ、つくってみて!ということですよね、自分でひねり出さねばならぬっていうね。信頼関係はどうなっているのかな、と、はたから見ていてかなり興味深かったですね。

飯名:演劇の作り方ともちょっと違うし。でもテキストにはすごくこだわってる。詩によって制御されている、という感じがする。作品の作り方として面白いなと見てて思った。「そういう風にダンスにアプローチすると、こうなるのか」と。振付台本、というか、そういうものがテキストで存在する。舞踏で使われる手法かもしれない。川口智子は、動きとしては具体的に振付するわけではないけども、例えば、ダンステクニックの持たない演出家が、ダンスを振付することができるか、と。そこで「振付台本」というものは可能性があるなって思った。詩のような言葉によるものでもいいし、2歩進んで1歩下がる、みたいな指示書でもいいと思うんだけど、そういうものをダンサーとしての辻田さんに渡したら、きっとそこから色々展開して面白くしてくれるんだろうな、と思うわけです。演出家の解釈だけではなくなっていくから、新しい発見も生まれるでしょうし。

水野:誤解から生まれてくる事もあるだろうしね。誤解から想像する、みたいな。川口智子が書いてくるテキストは、私が読んでも抽象的すぎて、付き合い浅いし分からないな、と思う事も当然あるけど、でもじゃあ、メンバー皆が分かってるのかというと、分かってない可能性もあるのかな、と。違うのかな?

飯名:あえて言葉での議論をしないんじゃないかな?議論しすぎない、というか。それぞれの理解に委ねていく感じ。演出家の言葉を理解しないとダメ、ということじゃなく。ミュージシャンの鈴木さんとダンサーの辻田さんのポジションが面白く思うのは、川口智子のテキストとか、ロジックに対して、頭での理解の前に、まず100%関係を受け入れちゃって、あとは「はい、音で出します」「ダンスで出します」「これが違うなら、別のことやってみよう」っていう印象。テキストの役割が、決して全体を制御するためのものではないという感じは面白い作り方です。

水野:その信頼関係はどこから来るのかなって言うと、やっぱり一緒に作品をつくってきた付き合いが長い、ということによる信頼関係なんでしょうね。

飯名:それは大きいですよね。

水野:演出家から宿題や課題を出したのを、毎日稽古場で見せるんだそうです。過酷でもあるし、面白いなーっていうか。稽古=ライブみたいなノリですね。

飯名:大喜利ね。

水野:そういう意味でも、瞬発力がつくのかな。

飯名:僕はあの作品で観たいと思ってることがある。福岡公演でちょっとした音のアクシデントがあって、思うように音が出なかったシーンがあったんだけど、もっとセッション感覚で、アクシデントをカバーしていけたら良かったと思う。せっかく面白い作り方しているのに、やることが決まって来ちゃうと、この作り方の魅力がなくなっちゃう。その場で新しいルールを作っちゃうようなセッションになっていくと、この作品は本当に面白くなっていく。舞台上のアクシデントをラッキーって思えるようになると、毎回演じ手も楽しめる作品になると思うし。セッションを演じるのではなく、本当にセッションしちゃってほしいなー、と僕は勝手に思ってます。セッションから生まれるグルーヴって再現不可能なものだし、出たとこ勝負の魅力。そういうのを演劇的構成に持ち込んで、実現させてほしいなぁ。

水野:川口さん舞台に出るのは初めてだそうですね。

飯名:作者自身があの場で言葉を発するのは、かなり大きい要素になりますね。

水野:そうですね、説得力が増す。川口さんがやってきた「ダンス作品に台本を書く」ということは、今の時代のダンス制作方法として、新手法になると思います。何故、ダンス作品に台本が必要なのか、ということ。その台本とは何を意味するのか、ということ。鳥取のレジデンスの時、私から川口さんに伝えたことは、この作品にとってサラ・ケインは大きい存在なのだろうが、あえて私流に乱暴に言うとすれば、サラ・ケイン風のテキストを捨てて、川口智子の内なる言葉をテキストにしてほしいということでした。このチームも鳥の劇場と、城崎国際アートセンターでのダンス・イン・レジデンスで、作品の核となるものを発見したと思います。城崎での途中経過発表後の2日間で、作家自らの言葉がこのセッションに必要ではないか、という実験をしてみて、演出家自身のセッションの参加方法を発見したはずです。ダンス・イン・レジデンスって長期でも短期でも、そのとき作品が産みだされていく場の力が出るから、やはり奇跡に近いことが起こり得る。だからおもしろい。

飯名:この作品のキーワードとして「子供」というのがあるように思う。この子供というのは一体誰を指しているのか、何の象徴なんだろうか、ということを考えながら観ると面白いかもしれません。現代人の「子供大人」、生物的には大人なんだけど、存在は子供、精神が子供、幼児化した大人、というようなことに置き換えてみることもできるだろうし、世界で起きてきた紛争や戦争によって巻き込まれた子供かもしれない。今後起こりうる戦争に巻き込まれるだろう子供大人のことかもしれない。戦争をする側の子供大人かもしれない。つまりそれは僕たちのことですよね。川口智子がサラ・ケインに影響を受けている部分は、核によって世界のパワーバランスが拮抗してきた歴史とか、それに対する危惧、恐れ、そういうものもあると感じます。何か得体の知れないものに操られている体、存在、という意味で、辻田さんのダンスがあるように見えます。川口智子自身も舞台に登場してくるわけで、そうすると、この人は一体どの時間の、どの空間の存在なんだろうか。作家自身が作家を演じるという役割で舞台に立つ時、この人は誰なんだろう。すべての作家の象徴としてそこにいるのか、川口智子自身なのか。おそらく両方でしょうけども。作家自身を含めた出演者である3人の人間関係みたいなものが大事ですよね。1人欠けてもバランスが崩れる。そういう関係が舞台上で出来てきてる。だからこの作品はセッションが可能だと思うんですよ。子供たちによるセッション、自由な戯れが、「天使ソナタ」なのかな。

水野:その飯名さんのセッションの視点は、新鮮ですね。ダンスでインプロなんて普通じゃん、と思いがちですが、ダンス作品の場合、これはインプロの作品ね、これは振付作品ね、という線引きが意外にぴちっとあるように思います。異ジャンルの3人がセッションするということは、当たり前のことなのに、意識的にならないとハードルが高いということかもしれない。これは穴ですね。

飯名:能ってそういう構造を持ってますね。構成や世界観を死守しながらもインプロする。構成から脱却していって再現不可能なセッションになっていく、なーんてスゴいじゃない?

水野:そりゃ、スゴイですよ。ファイナル東京公演で私が期待していることは、物語の起点から、後半にかけて、是非とも「破壊」してほしいなあ、と思っています。それが「希望」を与えてくれると思うので。何故、このダンス作品に台本があるのか、ということへの答えにも通じるところがあると思えるのです。というのは、台本には川口さんの作品に込めた思い、人類が犯してしまった惨劇への後悔、未来への危機感と警告が、戦争や核という明確なワードで、いわゆるキチンと展開して書かれています。辻田さんのダンス、鈴木さんの歌が、それに応えている。ただ、そこまでだと作品が完結しないしできない、未来が見えないというジレンマだけが残る。そこから抜け出すために、この舞台上にいるこの人たちが、最後に何をすべきなのか、捨てるのか、それによって、世界の未来が委ねられているのだ、くらいの壮大な気概を背負ってやっているように、私にはみえるのです。そうなると、Aプログラム3作品とも、全く違うダンス作品が見られますね。ワクワクするなあ。

飯名:今年の3作品は、これまでの制作過程の中でも、停滞せず、着実にブラッシュアップしてて、毎回色んな課題が見えてきますね。

水野:今回、桑折チーム以外の2作品には、言葉があるでしょ。ライブの弾き語りもある。だからメッセージ性の提供ということでいうと、多分ちょっと前のダンス作品では考えられないよね。こんなにもハッキリと日本語で、哲学が作品の中にあるという。それプラス、体やダンスが競演するという、そういう意味ではダンス作品が変わってきてると思いますよね。

飯名:たしかに本来であれば、ダンスというものはテキストを使わないでそのくらいの事をやらなきゃいけないんだろうけど、じゃあ今の時代でテキストなくそれをやるっていうのは、本当に伝わるのかなと疑問もある。それはダンス側の問題じゃなくて、観る側が時代とともに変容しているということもあるから。

水野:確かに。舞踏にはテキストはなかったけど、あれだけの哲学や美学が舞踏にはあるのだと、という事を色んな作家が書いていて。既にそういう情報が観客に前提として広まっていた時代とは違いますね。ダンスや体の表現だけで構成されるダンス作品の良さも十分理解し、肯定した上でのことですが、今、体だけで表現しようとすると、それはそれで伝えられる限度というものがあるということが、薄々分かってきている。ダンスだけずっと踊っていても、伝えきれない表現があったり、観ている方も納得できない時代になってきているのかもしれない。

飯名:それは新しい発見ですね。テキストとダンスっていうのが、最初からずっと同レベルで扱われていくという面白さ。喋りながら踊る、とか、そういうことじゃなくて。それぞれ別の時間と空間に、テキストと身体がある。でも作品全体を見たときに、「だからこの身体があるのか」とか「だからこの言葉なんだ」と感じることができる。

水野:「踊2」はコンセプチュアルになったんですね、という声もいただきます。

飯名:確かにそういう側面もありますね。

水野:全く踊らないダンスという風になっちゃうのも私はつまんないなあ、と思うのです。

飯名:ダンスを観るということと同時に、作品を観るということに向かえるんじゃないかと思います。

(感想トークおわり)

<東京公演情報>
渾身のAプログラム3作品。一挙上演。

2015.3.21(土) / 3.22(日)

会場: アサヒ・アートスクエア

チケット予約/詳細情報:https://odori2.jcdn.org/5/schedule/tokyo.html

<上演作品>

「#1天使ソナタ」 川口智子

「To day」 桑折 現

「ナレノハテ」 目黒大路

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