報告するぜ!!
- 2015年2月6日
- 「舟」というタイトルから、何を想像するだろう。
2015.2.3
せんだい演劇工房10-Box にて
テキスト:飯名尚人
写真:植地美鳩
ダンス作品を観る時、どうやって観るといいのだろうか。というのは、振付家や関係者、専門家にしたら大いなる愚問であろうけれど、実際よく「ダンスって、どうやって観たらいいの?」と聞かれることが多い。「別に思ったままに観ればいいんじゃなーい?」とは思うけれど、「思ったままと言われても、わからん!」と切り返されてしまうこともある。映画や演劇は、一部の特殊な先駆的演出作品を除けば、物語が用意されている。ダンス作品の多くは、その物語を自分で想像しないといけないし、そもそも映画・演劇の「物語」と、ダンスの「物語」では、その定義が違うような気もする。どんなにソリッドなダンスであろうと、その輪郭は曖昧で抽象的であって論理的ではない。感覚的なのだ。
仙台公演のBプログラム、今津雅晴さんの作品についてインタビュー取材をしているときに、「僕はこの作品をどう観ようとしているだろうか」と思った。作品の生い立ち、作家の思いは、今津雅晴インタビューページにすでに公開されている。その記事も事前に読み、こうして作家本人を目の前にして思ったことが、そのことである。事前にリハーサル映像を見せて頂いたものの、実際のダンスは観ていないし、新作として作っているわけだから未完の状態。なにひとつ定かでない。観客として来場する皆さんは、僕よりももっと少ない情報で、この作品と向き合うことになる。おそらくチラシの情報、WEBの情報を観て、あるいは、今津さんの名前を何かのメディアで観て、作品と向き合うことになる。こんな刺激的なことはない、なにしろ何の情報もなく、舞台を観ることができるなんてことは素晴らしいじゃないか、と思うけれど、多くの皆さんにとっては前述の「どう観たらいい?」という感覚があるのは否めない。
取材をしながら、「僕はこの作品をどう観ようとしているだろうか」と自問していたことをこうして今文章を書きながら思い出し、僕なりのこの作品への対峙方法を書いてみようかと思う。僕だったら、どう観ようとするか。自己検証。
この作品は、「舟」というタイトルがつけられている。
そして、今津雅晴という振付家によって構想されたものである。
今津さんは、マリー・シュイナール、ラララ・ヒューマンステップス、ベルギーのウルティマヴェス、、、数々の同時代の鬼才たちを間近に見てきた人であるから、ダンスや体の多様性を肌で感じ、それを実践してきた人である。鬼才たちのリハーサルの様子や印象を聞いているとワクワクするものがある。「マリー・シュイナールの舞台で、初演が3時間もあった作品が、再演のとき50分の作品になっていた。初演で観客に晒して分かったことを、次にやるときに余計なところをそぎ落として発表する。そうやって変化していくんです。」そんな貴重な話を聞くと、舞台作品を作る面白さと本質が一気に脳ミソに流れ込んでくる。
「舟」というタイトルから、何を想像するだろうか。舟の出て来る映画を思い起こした。舟、船。
ヴェルナー・ヘルツォーク「フィツカラルド」では、ジャングルの奥地にオペラハウスを作ろうと熱狂的なオペラファンの男が、川の激流を避けるべく船で山を越えるという荒唐無稽な物語である。フェデリコ・フェリーニ「そして舟はゆく」、冒頭の船の出航シーンが記憶に残っている。数分で映画の技術史を振り返ってしまうのだ。ルネ・クレマン「太陽がいっぱい」では、金持ちの友人を殺害し海に捨てるシーンで、ヨットが強風で煽られコントロールを失う。荒れ狂う船上は友人の呪いのようだ。アレハンドロ・ポドロフスキー「リアリティーのダンス」のラスト、ポドロフスキーが骸骨の運転する紫の舟に乗り、岸辺の幼少期の自分に向かって別れを告げる。レオス・カラックス「ポンヌフの恋人」では、狭いセーヌ川を浮浪者の男が船で爆走する。失明しつつある女が水上スキーをする岸辺は、なぜか花火で彩られ祝祭的だ。フランシス・F・コッポラ「ゴッドファーザー2」では、裏切った兄を弟が暗殺する。静かな湖で釣りをする小さなボート、銃声が響く。同じくコッポラの「地獄の黙示録」では、戦争の狂気を船で遡行する。森の奥地で原住民を支配し自分の王国を築いた軍人を探す途中、真の狂気に出会って行く。神代辰巳「もどり川」、歌人の男の自作自演の心中に、女を道連れにし、菖蒲の浮かぶ川をふたりの乗った舟が滑るように流れてゆく。小栗康平「泥の河」は、大阪の船上生活者の少年との出会いが描かれ、テオ・アンゲロプロス「ユリシーズの瞳」では、壊された巨大なレーニン像が船で運ばれ、岸辺では人々がそれを眺めたり船を追いかけて走っている。ジャック・リヴェット「セリーヌとジュリーは舟でゆく」、タイトルには舟とあるが、舟はあんまり関係ない。不思議な国のアリスを題材に、セリーヌとジュリーがパリの町を幻想とも現実ともつかぬ時間と空間を彷徨う。
舟というのは、どうやら、水に浮かぶ移動のための道具ではないようだ。舟に人が乗れば、時間と空間が流れ、ある時には逆走する。「ゴッドファーザー2」のラストシーンのように、静かに湖に止まった舟もある。時間も空間も動かない。「死」「終わり」を予感させる。強風に煽られ、どうにもこうにもコントロールが利かない「太陽がいっぱい」の舟(ヨット)は、前途多難を示唆するようでもあるし、何か恐ろしい運命の始まりを予感させる。映画の中で、舟というのは、人間の過去、現在、未来を描く器として用意されているようだ。舟が揺れるということは、心や関係が揺れていることであり、舟が進むときは、時代や時間の流れを意味したりする。
今津さんの「舟」には以下のようなコメントが書かれている。
我々はこの舟の中で沢山の想い出と悩み、
苦しみを知り、幸福を語る。
生きる。
2011年3月の震災のとき、今津さんはカナダ・モントリオールに居たそうだ。電話やインターネットで千葉の銚子に住む家族と連絡が取れなくなり、不安になった。モントリオールは大きな中州だから、その川から一艘の舟を出し、日本の家まで帰ろう、もしかしたら行き着くかもしれないと思った、と言う。その話を聞き、今津さんの「あがき」がこの作品のモチベーションのひとつように感じた。居ても立っても居られない、待つよりは舟を浮かべて必死に漕いで、少しでも先に進んでいたい、少しでも銚子に近づきたい、というあがき。カナダ人がその風景を見たら「おいおい、あいつ、何してんだ?」と滑稽に見える姿も、当の本人は至って真面目、必死である。
ダンスというのは、こういうところがある。その愚直な必死さに心を奪われる、ということだ。
今津さんが言う。「振付けとかいろいろあるけど、自分自身が感動したものって、倒れるとか、裸で走るだとか、すごくシンプルなもの。自分自身も何故なんだろうと思う。振りなんてどうでもいいのかも!とか思うんですよ(笑)。何かが動く、触ったり、落ちたり、走ったり、そういうことが泣けてきたりとかもする。」
舟とか、自転車で世界一周しました、みたいなことをやってのける人が、たまーにいる。ゴールの瞬間、なぜか感動したりする。飛行機で座ったまま移動できる時代になんでそんな面倒なことするのか、目的は定かでない。マラソンでも、ヨレヨレになってゴールする姿を見るとなぜか感動したりする。必死に踊る人の姿もまた、なぜか感動する。上手いとか下手とか、何かを表現しているとか、意味があるとか無いとか、そういうことでもなく。不思議なことだ。必死にあがきもがく姿というのは、どういうわけか共鳴するものがある。
(でも24時間テレビの芸能人マラソンにはまったく感動しないなぁ。なんでだろ。僕だけかなぁ。)
今津さんの構想は、当初は「舟に乗って、向かうべきところまで行こうと思った」のだそうだ。しかし作品を作っている過程で、「この舟を作る為に何が必要なんだろう、何故作ってるんだろう、と思うようになった。」
おそらく仙台で集まった出演者たちとのワークの中で、そういう変化が起こったのだろう。今津さんの用意した舟にみんなを乗せて、さあ、どこに行きたい?と尋ねるのではなく、一から舟を作る人を集めたのだろう。モントリオールから銚子まで舟を漕いで行ける現実離れした人と舞台に立ちたいと思ったのかもしれない。
「生きるということ、踊るということが、” あがき ” のようにも見える。何かを運ぶ、ということが生きるということだったり、舟に乗るということは、生きている途中のことかもしれない。」
おそらく僕は、舞台上に現れるであろう人々を、風景を見るように眺めるだろう。ぼけーっと観るかもしれない。ダンスとしては見ないんじゃないかとすら思う。舞台の上が世界の海だとして、そこに漂う人々は、生きているのか死んでいるのかも不明瞭であっていい。漂う風景が「舟」というイメージから連想される僕の中の何かと繋がれば、ワルツを踊るように互いの手をぐーっと引っ張っていき、そんなバーチャルな妄想的な体験をダンスと言ってもいいんじゃないか。ダンスそのものを観にいくのではなくて、「劇場というフィクションの場に、舟のある情景を眺めに行く」という観光。あるいは旅。自分の中のダンスがわずかに揺れ始める体験が出来れば、それもいい。
今津さんの舟を理解しようとしなくていい。もしかしたら、僕はこのダンス作品を眺めながら、前述した映画のワンシーンを思い出しているかもしれない。そういう極私的な見方をすれば、ダンス作品も身近なものになるはずだ。
(了)